クレーマー

私は別に特定個人をけなしたいわけではない。ただ、「クレーマー」としか思えない彼が、自らの立場を「クレーマー」ではなく「消費者」だと主張して論を展開している事に反論したいだけである。多くの方が彼の行為に賛同してしまうと、あまりにも住み辛い世の中になる気がしてならない。


先ず前提として、クロネコヤマトのWebサイトに於いて、メール便の利用については下記の注意がされている。

【ご利用上のご注意】
・ 配達日時および曜日の指定はできません。
紛失または破損した場合は、運賃の範囲内でのみの補償となります
・ 配達が遅延した場合の補償はございません。
・ 受領の確認をご希望される方、運賃以上の補償を希望される方は宅急便をご利用ください。
・ 郵便私書箱宛てはお預かりできません。

またメール便と同料金(80円)のサービスを提供している日本郵便に於いては、下記の注意がされている。

損害賠償の対象とならないサービス
下記サービスは、万一事故があっても損害賠償の対象となりませんのでご注意ください。
郵便物(手紙・はがき)で書留としないもの
大切なもの、高価なものは、書留としてお出しください。

http://www.post.japanpost.jp/service/songai_baisyo.html

その上で手紙の送付について下記のオプションを用意している。

書留
引き受けから配達までを記録し、万一、郵便物が壊れたり、届かなかったりした場合に、実損額を賠償します。
貴重品を送るときに最適、万一のときも安心です。


配達記録
郵便物の引き受けと配達を記録します。


引受時刻証明
郵便物の引受時刻を証明します。
引受時刻証明は書留(簡易書留を除きます。)としたものに限りお取り扱いいたします。


配達証明
郵便物を配達した事実を証明します。
配達証明は書留(簡易書留を除きます。)としたものに限りお取り扱いいたします。


内容証明
郵便物の内容について、謄本で証明します。
内容証明は書留(簡易書留を除きます。)としたものに限りお取り扱いいたします。

個人的には引受時刻証明は初めて耳にするサービスだし、内容証明はあまり使われているものではないだろうが(金融や法律関係と言った特定の業種によっては多用するもののようだが、個人的には1度しか使ったことは無い)、電子メールが普及して手紙の利用が減った昨今であっても、「大事なものは書留で」と言うのは広く知られていることと思う。


その上で、「デキルヤツノ条件 6:クレーム処理はできますか」の内容について考えてみたいと思う。

 もしかしたら、左右両隣かフロアーを間違えて投函した可能性だって考えられる。クロネコヤマトの“メール便”は、ポストに投函すれば配達は済んだことになり、受取人受領のサインなり判子は求めないのだ。だから確認のしようがないらしい。


 「こういうときは、どうしたらいいんですか」


 私は再び配送センターの責任者という人を呼び出して訊ねた。


 「こちらとしては、配送料の80円をお返しするしかできないんですが」
 「ちょっと待って。ねえ、おたくはそれで解決する気なの?」
 「と言われても、そういう規約になってますから」


 発注票にも書いてあるとか、そういうことを言われたように思う。


 だが、私の手許にはその発注票とやらがない。もちろん、読みたかった小説も手許には届いていない。


 「ちょっと待って。あのね、ぼくは弁償しろとか、そういうことを言ってるわけじゃないんだよ。ちゃんと配達してくれたのか、しなかったのか、事実を知りたいだけなの。あなたは、ドライバーが配達したと言っているから配達したと言う。でもぼくは受け取っていない。じゃあ送料の80円をお返ししますって、そういう話じゃないでしょ。おたくの信用度の話でしょ、違うの?」


 と言うようなことをまくしたてたのだが、はぁ、とか、そうは言われましても、といった返答ばかりで、のらりくらりと躱されるばかりだ。そして最後は、判で押したように、送料をお返ししますので――。あのね、送料の80円が戻っても、ぼくはとても大切なものを失くしているんだよ。わかるかい、ヤマトの諸君。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080409/152681/?P=1

メール便のサービスに「きちんと届いたかどうか」を確認する事は含まれていない。つまり筆者は必要以上のサービスを求めようとしている。「お金の問題ではない」と筆者は言うが、では筆者はどういった対応がヤマト運輸からされれば納得したと言うのだろうか。ただ単に筆者が読みたかった本が届かなかったと言う憤りをヤマト運輸にぶつけたかっただけではないか。個人的な感情を理由に料金以上のサービスを求めようとするのは典型的なクレーマーである
それに責めるべきはヤマト運輸ではなく、よく知りもしないメール便を安いからと言う理由で利用した筆者の友人だろう。筆者は友人との軋轢を避けたいためにヤマト運輸を仮想敵に仕立て上げてしまった。何故筆者は友人に「メール便は配送事故があり、届かないことも有る。今回はその一例だったそうだ。」と連絡しなかったのだろうか。その一言でこの問題は解決した筈である。
「テキルヤツノ条件」に「友人との間に問題があった場合、共通の敵を作り出す事で円満に解決する」と言うことがあるのであれば話は別だが…

 当然、80円を返却にあがりますという申し出も断った。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080409/152681/?P=2

筆者のこの対応もおかしい。80円を返却されるべきは郵送を頼んだ筆者の友人なのだから、勝手に80円の返金を断るのはお門違いであろう。この時点で筆者が自分とヤマト運輸との関係を歪めて捉えているのが分かる。

 前回のこともあって、内心では、ここにお願いするのはまずいかな、と思いつつも、コンビニに行っていちいち発注票を書くのも億劫だし、かといって発注票だけもらってきて自宅で記入し、また持ち込むのはもっと億劫だったので、荷物を届けてくれたドライバーに事情を話してみた。もし発注票が5〜6枚あったら分けてくれないかと。


 ドライバーは快く応じてくれたが、用紙は車に置いてあるという。


 よければエントランスのポストに入れておいてくれると言うので、私は是非ともそうしてもらいたいと応えた。彼にまたこの階まで戻ってきてもらうのも申しわけないし。私だってそのくらいの礼節はわきまえている。たぶん。


(略)


 その日は荷物が届いたのが午前の早い時間で、つまりは起きたままの恰好だったので、私は着替えをしてからエントランスに降りた。ドライバーが去ってから、ほんの5分かそこらの時間だったと思う。


 ところが、ポストを覗いたら発注票は入っていなかった。


 最近は台車やどでかいワゴンに荷物を積んで近隣一帯を一気に配達してまわることもあるようなので、他の配達先をまわっているのだろうと思い、私はいったん部屋に戻り、時計を見てかっきり30分後に下に降りてみたが、やっぱりポストに発注票は投函されていなかった。


 さて、これはどういうことか――?


 私は即断即決の人だ。怒り心頭に発したときの行動は特に素早い。一気にギアをトップに入れる。それでエンストを起こすこともしょっちゅうだが、担当編集者は大いに頷いているはずだ。わかりますわかります、あっという間に噴火しますもんねぇとか何とか言いながら。


 私は、即座に受け取り表に記載されている“お客様サービスセンター”に電話を入れた。


 応対したのは女性のオペレーターだ。
 「ちょっとお伺いしたいんですけど」


 事情を説明する。ドライバーに確認して、すぐに折り返すという。


 折り返しの連絡はすぐにあった。このあたりの対応はたいへん素早い。さすがはテレビコマーシャルでもお馴染みの、日本全国どこへでも、ときには海外へだって指定した時間どおりにきっちり荷物を運んでくれる大きくて立派な会社だ。


「ドライバーに確認したところ、車に発注票の用意がなく、次の配達予定があったので、そのまま出発したとのことでした」
「ちょっと待って。だったらどうして連絡を入れてくれないの、そのドライバーさんは。ぼくが受け取りのサインをした配達伝票には、ぼくの電話番号が書いてあるはずだよ。ドライバーさんだって携帯電話は持ってるはずだよね」
「はい、まことに……、どうしても次の配達があったものですから」
「ちょっと待って。だったらひとつ訊きたいんだけど――」


 この女性オペレーターをいじめたって意味がないことはわかっている。私にだってそのくらいの理性はある。たぶん。だが、クロネコヤマトの“お客様サービスセンター”の返答はあきらかにおかしい。ドライバーのやり方は、もっとおかしい。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080409/152681/?P=2

何がおかしいのだろうか。筆者の発言の中に伝票が急を要するようなニュアンスは含まれていなかった。であれば、30分後にポストに入っていないことに怒りを覚えるのは筆者の沸点が非常に低いのだと思わざるを得ない。伝票を届けてくれると言うサービスはドライバーの善意であるにも関わらず、その善意が実行されなかったからと言ってこの対応はあまりにも酷くないだろうか。
筆者のような対応をする人が出てくることで、他の利用者がドライバーのこのような善意を期待することができなくなる可能性があるというのは、非常に迷惑な話である。

 クロネコヤマトの配達センターの責任者と話すのにも疲れ、そのうち、私はとてもばからしいことで怒っていたのではないかとも思えてくるのだが、彼と話しながら、私の頭の片隅では、とても“気になること”が頭をもたげていた。


 前回のときもそうだった。


 配送センターの責任者を名乗る男性は、一度として、すみませんでした、申しわけありませんでした、ご迷惑をおかけしました、といった詫びの言葉を口にしないのだ。それは、当方に非はないと言っているにも等しい。


 すると、私などは、ドライバーへの怒りより、そっちのほうが気になって仕方がなくなってくる。気が散りやすいってことかな。集中力とか持続性ってのがないのかも。


 「次の配達先へ急ぐ気持ちはわかるよ。でもね、おたくのドライバーさんがやったことはどうなの? 褒められるべきことじゃないよね、ぼくは待ってたんだよ」


 わざわざ着替えまでして。髪までとかした。


「それはもう、きっちり言って聞かせますんで。今後はこのようなことのないようにですね」
「そういうことを言ってるんじゃない。どうして電話の一本もくれなかったのかと訊いてるわけ」
「ですから、本人が次の配達先へ急いでいたと申しておりますんで」
「だからさ、そうじゃなくて」


 ずっとこんな感じなのだ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080409/152681/?P=3

オペレーターの話を途中で遮っていれば、謝罪の言葉に繋がらないのも当然であろう。オペレーターには筆者が着替えて髪までとかした等と言うことは同でも良い情報であるし(突然の来客などに備え、家の中でも最低限の身だしなみを整えておくと言うのは社会人として当然の事であろう)、そもそも伝わってもいない。それに身支度をしたなら近場のコンビニに出かけて伝票を取ってくるだけの事ができないのだろうか。

「ぼくは発注票をくれと言っただけで、料金は払っていない。そのうち客にはなるかもしれないけれど、現時点ではまだ客ではないわけだ。お金を払ってないんだからね。ぼくのことは放っておいて次の配達先へ急いだということは、料金を払った人を優先したということだよね」
「いえ、決してそういうことでは」
「いや、そういうことだよ。おたくはドライバーにそういう教育をしているってことだよ。お金を払ってない人間は後まわしにしていいと指導していることになるよ。おたくにもマニュアルがあるでしょ、そこにそう書いてあるんでしょ」
「いえ、決してそんなことは」
「じゃあ何て書いてあるか言ってみなさいよ。届け先の人間が発注票を欲しいと言った、手許にはないが車に置いてあると応えた。しかし、車に戻ったら発注票の予備がなかった。そういうときは放っておいて次の配達先に急げと書いてあるんでしょ。それがおたくのマニュアルなんでしょ、違う?」
「そのようなことは絶対にありません」


 私は、実はこの“絶対”という言葉を待っていた。


 ふだんも取材をするとき、それが口先ばかりの能なし官僚だったり、悪徳の匂いをぷんぷん撒き散らしている政治家だったりすると、私はこういう話しの持って行き方をする。陰険だぞ、ジャーナリストは。


 「絶対にないと言ったね。だったら訊くけど、おたくのドライバーは配達先の女性を絶対に襲ったりしないと言い切れるね」


 配送センターの責任者という男性は黙ってしまった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080409/152681/?P=3

今回の件とは全く関係の無い話題を持ち出すと言うのもクレーマーらしい。それも自ら呼称しているように「陰険な」クレーマーであろう。対応した方が「今回の件とは関係が無い」と切って捨てるくらいの対応をしても何らおかしくが無い。こういう突然脈絡の無いことを言い出すことで相手を煙に撒くのが上野千鶴子女史らが言う「喧嘩が強い」事なのかもしれないが、あまりにも稚拙だ。この程度でジャーナリストになれるなら、多くの方がジャーナリストになれるであろう。ただ、普通の人ではあまりにも恥ずかしくてこのような事ができないだろうが。


不祥事を起こさなかった大企業が何社あるのだろう。何事も「自ら罪を犯したことが無い者だけ」しかできないのだとしたら、全ての企業が押し黙るしかない。国も地方自治体もそうだろうし、全ての個人にも当てはまるだろう。
それとも筆者は過去の自分の行為に全くやましいことが無いのだろうか。若しくは過去の自分の愚かな行為を指摘されたら、そのときに自分が主張していることでさえ撤回すると言うのだろうか。


人は仕事で必ずミスをする。働いている方であれば「自分の仕事は常に完璧だ」等と話す人の言葉がどれだけ幼稚な発言であるかが分かるだろう。自分も仕事でミスをするのだと言う事実を真摯に捉えた上で、それでも尚、他人のミスには自分の気の済むまで謝罪と賠償を要求し続ける姿勢が良いと言えるだろうか。私には言えない。
他人のミスを指摘することは大切だ。私もよくウェイトレスや係員の方のミスを指摘する(友人らには止められるが)。しかし私はその上で「次からは気を付けてください」の一言で済ませるようにしている。ミスを認める事はミスした側の誠意であるが、ミスを許す事はミスされた側の誠意であるべきだ。
「情けは人の為ならず」と言う言葉の通り、他人に対する情けは巡り巡って自分に戻ってくるものだ。ミスを激しく糾弾する世の中とミスに寛容な世の中とでは、どちらのほうが住みやすいだろうか。私は後者のほうが住みやすいと思っているし、そういう世の中を次の世代に残して行きたいと思っている。