田母神氏の発言は文民統制に抵触するのか?

なぜ文民統制は繁栄を導くのか?」について。


先ずは語彙の誤解を指摘する。

 私たちは「自由」や「民主主義」を、あまりに当たり前に考え、そのご利益を見失うことも珍しくありません。このコラムへの読者コメントにも「戦後民主主義思想」うんぬんという書き込みを頂きましたが、マンガか何かならともかく、自分の身代を含めて冷静に考える時、「自由」や「民主主義」の意味や価値を再確認する必要があると思います。そのためには、反対の意味を表す言葉、つまり「対概念」を考えると有効でしょう。


 「自由」の対概念は「規制」、「民主」の対概念は「独裁」、「文民統制」の対概念は「軍閥支配」として、以下考えてみます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081117/177427/?P=2

「民主(制)」の対概念は「王(制)」、「文民統制」の対概念は「非文民統制」だろう。


「民主(制)」の対概念は「王(制)」である理由は非常に簡単である。「民主制独裁国家」と言うものが存在しているからである。
中国は民主制ではあるが中国共産党による独裁が行われている。歴史をさかのぼれば国家社会主義ドイツ労働者党(=ナチスドイツ)も民主制の中から生まれた独裁政治であったし、戦前の日本もその例外ではない(戦前の日本に関しては後の部分で指摘する)。つまり、民主政治であるからといって独裁にならないと言う甘い考えこそ、戦後民主主義思想の最たるものである。
民主主義国家は絶え間ない国民の努力によってのみ成立しうる国家である。つまり国民一人一人が民主主義国家の構成員としての自覚を持ち、明確な政治意識を持っていなければ成り立つはずの無い国家で、その為にも国民の大部分が確りとした教育を受けているのが前提になる。教育が重要である理由はそこにあり、これを誤った解釈によって実践する教師の少なくないことには危機感を覚える。
極端に言えば、ある民主主義国家の国民が戦争をしたがっていた場合、どれだけ国際社会が平和を望んでいようとも、それが国民の意思であれば、その国家は戦争を起こさなければならないのである。民主主義だからという理由だけでその利益を享受できるという考えは楽観的過ぎる。民主主義は国民一人一人に多大な責任と義務を押し付ける制度なのであることを、筆者には自覚して欲しい。
私の友人は「政治を意識しないで生活できるのが一番良い」と言っていたが、民主主義国家ではこの発言は許されない。まあ民主主義を放棄すると言う意思表示ができると言うのも民主主義の特長ではあるのだが…


また、ヨーロッパにはルクセンブルクリヒテンシュタインと言った絶対君主制を敷く国が少なからず存在するが、それら「民主化文民統制もされていない国国」が独裁国家として危険な存在として認識されているだろうか。それらの国国が経済成長を遂げていないと言えるだろうか。
民主制の素晴らしさを語るのは自由だが、的外れな民主制賛美は痛痛しいだけである。


文民統制」の対概念は「非文民統制」である理由も簡単だ。「軍閥支配」の意味するものは「独裁」であり、独裁の対概念は「文民統制」ではないからだ。
正直なところ、文民統制の対概念は思いつかない。そもそも文民統制というものが何なのかと言うのも非常に曖昧であり、各国がそれぞれの基準で文民統制というものを行っているからだ。例えば現在の日本に於いては自衛隊を除隊した者はその後一生武官であるが、アメリカでは退役後10年経てば文民扱いになるそうだ。また兵役の義務がある韓国などの国では国民全員が兵役経験者であり、日本的な文民統制の概念を持っては国を統治できない。スイスのように国民全員が兵士であるような場合も同様である。つまり、文民統制と言う言葉は非常に曖昧である
「最高司令官が民意によって選ばれる」と言う狭義の文民統制で言えば、各国とも文民統制が取れていると言えるだろうが、筆者の意図する文民統制はそれ以上の意味を含んだ非常に広義なものとして、都合よく解釈できるよう定義されている。
筆者はこの「文民統制」と言う言葉を、その後の文章だけではなく以前のエッセイについても同様に、様様な場面で使われる非常に万能な言葉として使っている。先ずは筆者の考える文民統制という言葉の意味をもう少し確りと定義して欲しい。前頁で文民統制の歴史を紐解いているだけに、現在の文民統制のあり方やその定義について確りとした解釈に踏み込んでいただけなかったのは残念だ。



次に歴史的事実の誤解を指摘する。

 …と、私の話はすぐ脱線すると読者からお叱りを受けるので、ここではこれ以上踏み込みませんが、19世紀半ば・文化文政期から明治維新を経て戦後の高度成長まで、経世済民を一貫した観点で見る時、「文民統制」の威力は改めて絶大と思います。2001年に産学連携の観点から東大史をコンパクトに編纂し直したことがあるのですが、17世紀前半、林羅山の家塾が幕府の昌平坂学問所となり、寛政の改革で作られた官学の骨格が現在の東大法学部まで受け継がれており(詳しくは『バカと東大は使いよう』をご参照ください)、統治の基本と社会・経済の成長の相関は明らかです。


 「将軍」の治世から「王政復古」による近代制度の導入で、日本は大きく社会と経済を成長させました。しかし大日本帝国憲法が曖昧にしていた「天皇による軍部統帥権の独立性」がネックとなって、1929年の世界恐慌以後、日本は軍部の独走を抑える「文民統制」が利かなくなりました。結果、満州事変以後の戦乱に突入、実体経済は崩壊状態に陥りました。日本がナニ国家だったか、といった解釈・評価の別によらず、経済諸指標は明確な事実を伝えます。最も切り詰めて言うなら、1930〜40年代、日本には国家経営に大きく失敗した時期が存在する。これは否定しようのない事実です。

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幕末から明治初期にかけては、筆者の言っていることと全く逆である。徳川幕府軍事独裁政権だったわけではなく、各藩との武力による均衡をもって治世していたに過ぎない。江戸時代の日本は統一国家と呼べるものではなく、各藩毎に政治体制が異なっていた。例えば藩内で飢饉が起きたとしても、隣の藩は知らぬ存ぜぬ、幕府が援助をするということも無く、藩の努力によってのみ藩政は保たれていたのだ。
そして幕府は藩に力をつけることをさせまいと、築城の制限や婚姻の制限などを設けて各藩を支配した。こうした国内の足の引っ張り合いを続けていては諸外国に蹂躙されると言う恐れから、日本は近代化、つまり軍国化していく必要があったのだ。明治維新によって薩摩藩長州藩重臣らが明治政府を作るが、その際に藩政は否定され、軍は政府によって統合される。持てる軍備は国内で争いあう為のものとしてではなく、外国との戦いに向けて準備されるものとなっていった。
この体制は文民統制とは全く異なる思想によって行われたものであり、日本の近代化と文民統制とは全く関係が無い。


もし1932年の五・十五事件を以って民主政治の終わりとするならば、1890年から40年近く続いた選挙制度の中で、国民が文民統制を望まなかったと言うことを意味するのではないか。それはつまり、日本の繁栄は文民統制によってもたらされたものではないと言う、国民の意思表示だったのではないか。
その後20年間の国策が「大きく失敗した」のは、文民統制が行われていなかったことと直結しない。民主主義国家に於いて国が戦争を行う場合、戦争を起こしたいと言う民意が無かったはずが無い。
日本は日清戦争(1894)によって多額の賠償金を得、日露戦争(1904)によって領土を拡大し、第一次世界大戦(1914)によって好景気と領土を手に入れてきた。そして戦争の起きていない1920年代には世界恐慌が発生し、1930年の昭和恐慌へと続いていく。そういった歴史の中で、1930年代の日本国民がどのような景気打開策を望んだのか…長きに渡る日中戦争を軍部の独断が責任とするか、民主主義国家においてそれを収束させなかった国民の責任とするか。筆者は前者を理由にしているが、私は後者が理由であると考える。
民主的な手続きを踏んで生まれたナチスは、文民統制がされているにもかかわらず「国家運営に大きく失敗した」と言う例を鑑みれば、筆者の関連付ける文民統制と経済成長との関連が直結しないと言うことも明らかだ。



続いて、現状認識の齟齬について指摘する。

 国際社会は、その国情が安定し、法治が行き届き、人々の経世済民=国民経済が順調な成長を遂げられると見なされる時、国を国と認めます。武力によって国内を抑えつける軍事独裁の状態は、国の経済が順調に発展するものと見なされません。

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では中国のような国に各国の投資が盛んなのは何故だろうか。中国国民党軍の政治部門である中国共産党による一党独裁、つまり軍事独裁の中国に世界の各国から投資が殺到し、長期の経済成長ができた例をどう説明するのか。
軍事的独裁状態が経済成長を促せないと言う考え方は非常に短絡的である。民主的な経済成長を遂げる前段階として、軍事政権下における経済基盤の確立(財閥の育成など)があり、政府の力が無くても経済成長が遂げられるまではそう言う状態で無いと国が成り立たないのだ。
原始時代に紙幣を流通させても意味が無いように、国家や経済の成長には踏むべき段階が存在するのだ。国際社会においては外国の力を借りて(若しくは強制的な介入によって)一足飛びに近代化を成し遂げる例は存在するが、そういった急激な社会変化がどういった結果をもたらすかは、中東各国とアメリカとの関係を見ていれば分かる筈である。
文民統制が取れていない=二等国」と言うような思考がいかに短絡的であり、「独裁国家民主化する」と言う名目での侵略行為に繋がるものであるということこそ、真剣に考えるべき問題ではないか。

 田母神氏の数ある発言の中で、もっとも注意しなければならないのは、諸外国から憲法を軽んじているように見える発言を議院内でしたことだと思います。

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 責任ある立場にあった自衛官が、公的な武力の職掌にありながら、国会の場で「言論の自由」を主張する時、国政に与るものは法に照らして適否を示すべきです。

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田母神氏は参考人招致された時点では退官しており、航空幕僚長の任からも解かれている。であればどのような発言をしようとも、それが文民統制を理由に問題にされるべきでは無いだろう。それとも自衛官は退官後も政治的な発言をしてはいけないと言うのであろうか。
民主主義国家に於いて、国民が政治に参加しないと言うのは不可能である。文民統制の名の下に田母神氏の発言を糾弾するのであれば、そもそも自衛隊員や元自衛隊員から政治的な意思表示をするための選挙権・被選挙権と言ったものを奪うべきだと言う話になりかねない。
また憲法は絶対的なものではない。その憲法について疑念を抱く人が衆議院の2/3の議席を占めれば改変できるものなのである。憲法が神聖不可侵なものであるという幻想は原理主義者的な発想であり、将来に対する成長にとっては足かせ以外の何物でもない。
戦前、日本が戦争の歴史へと足を踏み入てしまったのも、明治政府によって作られた憲法が50年間改正されずに続いてきた事とも無縁ではない。もし民主的な手続きを踏んで憲法を改正し、天皇統帥権を変更していたとしたら…憲法が常に正しいと言う誤った考えが戦争へと突き進んだ原因と何故解釈できないのか疑問である。

 およそ、国際的に「一等国」と看做される国では、先進国の武官は必ず憲法に絶対の忠誠を誓わなければなりません。憲法、つまり国権の最高法規に従わないということは、いつ軍事クーデターを起こしても不思議でないものと、国際社会からは見られかねないからです。

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確かに自衛隊憲法を、また法令に従わずに運用されるのだとしたら非常事態である。しかし田母神氏は「憲法を軽んじろ」と言っているのではない。「憲法が正しいのかもう一度考えるべきだ」と言っているに過ぎない。その言葉さえ危険視するのは言葉狩りの域であろう。

 官費で供される武力に預かる、責任ある立場の者が、自らの行動を何によって規制されるのか? 法治により憲法が国権をコントロールするのが普通の一等国であり、軍事力を背景に政府方針と違う「意見」を空砲のように乱発するのは、国のグレードを二等以下に落しかねない不用意な行動です。

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田母神氏の応募した懸賞論文が世間的にどの程度の影響力を持っていたものなのかは、正直分からない。マスコミが広めなければ懸賞論文自体が注目されること無く闇に消えて行く程度の、小さなコミュニティーに対する意見表明にしかならなかったのではないか。それを「空砲のように乱発する」と表現するのはいかがなものか。
本当に目に付く場所で問題発言をしていたのだとすれば、もっと以前から発表されていた論文から非難されるべきであり、ことここに至って過去を穿り返さねば出てこないような発言の数数を以って氏を糾弾するのは、非常に馬鹿馬鹿しいと言わざるを得ない。


また田母神氏の発言は「軍事力を背景に」していたかと言う点も疑問である。そうであれば非常に由由しき問題であるが、私にはそう解釈することはできなかった。

 私は田母神氏が軍事クーデターを起こそうと思っていたとは、露ほどにも考えていません。同時に、軍紀の根本に対する理解が甘く、また憲法が「武力」という国権を縛るものであることを理解せず、必ずしも力を持たない国民一般を守るための「言論の自由」などの権利を完全に誤解していることを、明確に指摘したいのです。

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言論の自由と行動の自由とは全く違う。己の政治信念によって自衛隊を私利私欲で動かしているのであれば問題だが、政治信念がどうであれ政府の意向に沿って軍隊を動かしている以上、問題視される謂れは無いはずだ。

 自衛隊の中には、旧帝国陸海軍以来の人的連続性があり、公式には言えないとしても「いまの憲法は…」といった議論がある可能性は十分に考えられるものでしょう。しかし、米国一国超大国による覇権の時代が終わりつつある今こそ、また憲法を本気で改正したい、などと思うのであれば、およそ「憲法一般」というものが、何であるのか、武官がきちんと認識する絶対的な必要性があります。


 武力を手にするおのれの「自由」の拡大、といった、国際社会で日本の信用ランクを急降下させるような短見は厳しく戒め、自衛隊員に(内容の如何以前に、まず)「憲法というものに武官が忠誠を誓う」ことが、法治国家の基本中の基本であることを、徹底再教育する必要があると思います。


 私が強調しているポイントをよく理解して頂けない読者もあり、迂遠な割りに筆力のない私の限界と反省しています。

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そもそも、自衛隊員だろうが何だろうが、国民は須らく憲法や法令を遵守することが当然である。
その上で、憲法や法令の問題点を考え、時代に沿った新しいものに作り変えていく義務があるのである。そういった義務を放棄した民主主義国家に将来は無い。筆者の発言は筆力云云の前に、的外れである。

 でも歴史を遡って一国の国際経済戦略を見ればどうでしょうか? そこには為替や金融に十分配慮する人々を、強権を持って軍事拡大を主張する人が敵視する明らかな傾向が見られます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081117/177427/?P=3

軍事拡大は内需創出と言う側面を持っていることを見逃してはいけない。例えば戦艦一隻作る場合において、建造に必要な鉄鋼の量、それに伴う雇用の創出、艦隊勤務を行う軍人の確保など、経済的な観点から軍備を拡張すべきだと言う意見があってもおかしくは無いのだ。
また何故戦争をするかと言えば、戦争がしたいからと言うような短絡的なものではない。戦争をすることによって得られる利益があるからに他ならない。大東亜戦争に於いて日本がアジア諸国に進出したのも、欧米各国が抱え込む膨大なアジアの資源を確保する為であり、戦争によって得られる利益があった(若しくは戦争によって利益を失わずに済んだ)為であるし、アメリカが今尚中東に進出しているのも、国益の為である。
戦争狂による大量快楽殺人だったわけではない。


戦争は経済活動の一端として現れてくるものであり、経済と軍事は対立しているものではない。経済力に余裕が無ければ軍縮に向かい、経済力に余裕が出てくれば軍拡に進むのだ。アメリカが世界で一番の軍隊を維持できているのは、単に世界で一番の経済力を持っているからに他ならない。
ソビエト連邦が何故崩壊したのかを考えれば、経済力に見合わない軍備を整えることの愚かさが分かるはずだ。




「いかに効率的に戦争に勝つか」を考える軍人と「戦争後の政治・外交をどのようにすべきか」を考える政府とでは、常に問題が発生するものである。例えばダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争時に政府との対立から更迭されている。自軍の将兵の命を大事に考えれば、(戦果の面から見れば)非常に効果的な原子爆弾の使用を軍部が求めるのが当然であるが、その後の占領政策や国内の反発、諸外国との調和を考えた場合に於いては効果的ではないと政府が判断するのも当然である。
それを使用しなかった為に勝てなかったとしたら、敗戦の責任は国民一人一人が負うことになる。これが文民統制であり、民主主義というものである。
再度繰り返すが、「民主主義で文民統制されているから安心」なのではない。「民主主義で文民統制されているからこそ、国民一人一人が自覚を持って軍隊を考えなくてはならない」のである。我我は自分の国を自分達の意見によって決められる権利を得ると同時に、自分達で決めなくてはいけない義務を課せられているのである。政治に参加したくないのであれば君主制にするしかないのだ。
以前某氏が「日日政治のことを考えてうだうだ言うよりも、家の手伝いをしている方がはるかに現実に対して影響力がある」と言う話をしていた。その意見は非常に正しいと思う。日日政治のことを考えなくてはならない民主主義という国家体制は、多くの分野が専門化し先鋭化している近代国家に於いては、現実的な制度ではないのかもしれない。誰もが政治よりも自分の生活を第一に考えているのであり、生活の多くを仕事に費やさねばならない社会において、理想的な民主主義が実現できるはずも無いのだ。民主主義国家における政治家の腐敗は、即ち国民の怠慢にあると言うことをもっと自覚すべきである。


権利だけ主張する存在を「モンスター○○」と呼ぶ。「モンスター国民」にならないよう、我我はもっと政治について考えるべきでは無いだろうか。