意図的な歪曲?

歪曲した事実で展開される論理で日本を卑下するのは、日本人として非常に辛い。
どのような点が歪曲されているのか、その点を挙げていく。


その前に先ず、以前の筆者の言を借りて2点指摘する。

 ちなみにイタリアの大学では、島津製作所の脳機能可視化技術など新しい科学技術を使って、伝統的な音楽の問題を調べる、私たちのグループの研究を非常に自然に受け入れてもらえます。


 日本ではこんなこと絶対にありません。音楽学関係者は非常に「文系」に偏りやすいか、あるいは若い人などテクノロジーの話題だけになってしまいやすく、また理工系の学者さんの多くは厳密な音楽の研究というものに、そもそも価値を見いだしてくれません。「その経済効果は?」なんて聞かれるのが、東大あたりでしかるべきポジションにいる人の反応です。

 こうした違いを痛感するにつけ、やはり日本は後発先進国なのだと思わないわけにはいきませんでした。

 ただ、正直に申しますが、今回は「ノーベル賞授賞式に間に合わせる」という方針になったため、海外出張にまたがって、かなりの強行軍になり、細部には校閲でスルーしてしまったミスが初版に残ってしまいました。


 私自身、生まれてこの方、最も速く1冊の本を書く経験になりましたが、校了後、自分で気づき、恥ずかしく思っております。厳しい読者には粗製濫造とのお叱りを受けそうで恐縮です。見つかりました誤りはウェブでも訂正し、重版で必ず直します。内容でお気づきの点がありました読者には是非、本コメント欄でもご指摘を頂戴できれば幸いです。


 ただし細部はさておき、書籍のアウトラインは、ここ10年来内外で関わってきた問題の太い骨格を明瞭に示すようにしています。

以前筆者は、田母神氏の発言を下記のように評している。

「論文」以前の「打ちっぱなしメモ」


(省略)


 田母神さんは防大で電気工学を専攻したそうですが、防大の電気電子の教官は、例えば実験レポートで無検証の印象を羅列したものに「可」以上の成績を出したのでしょうか? さらに、資料によれば田母神氏は「統合幕僚学校校長」も務めたといいます。そんな人物が


 「竹島も韓国の実行(ママ)支配が続いている」


 などと、誤変換そのまま、(言うまでもないですが「実効」支配)、ワープロ打ちっぱなしで、副官の査読などチェック機能の働いていない文書を出すのが、そもそも用心が足りません。


(省略)


 もし私の学生が「レポート」としてこういうものを出してきたら「これは大学以上のレベルでレポートとは言わない。<メモ>である。再提出」と差し戻すことにしています。


(省略)


 「文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。」(「日本は侵略国家であったのか」田母神俊雄 p.7)


 これでは、したたかなロジックの展開としては通用しません。もし誰かの「引用」として出典を明記すれば、まだなんとかなりますが、ここでは根拠なしに単に断言してしまっているので、もし交渉ごとなどで、その点を突かれれば、論破されて負けです。脇が甘いのです。きちんと添削的に指摘するならば


◎「戦争によって<のみ>」とあるが、本当に<のみ>であるか?


←<のみ>という表現は、一つでも反例を出されたら論拠が崩れてしまう。もっときちんとした推敲を勧める。


◎「強者が自ら譲歩することなどあり得ない」云々


←同様に「あり得ない」と言い切れば「ある」と反例を出された時点で負けてしまう

KY空幕長の国益空爆

つまり、「誤字・脱字がある文章は構成が甘く、レポートとは言わない」「根拠無しに『あり得ない』等と断言するのは脇が甘い文章である」と言う筆者自身の発言に照らし合わせて今回の文章を読むと、今回の文章や今後出版される書籍は、「論文」以前の「打ちっぱなしメモ」の類なのではないか。
以上の私の発言は批判と言えるレベルのものではなく、読んでいる方を不快にするだけの文章であることは承知している。が、そういう文章を筆者は田母神氏に対してしていたのだ、と言うことを分かっていただく為に敢えて重箱の隅をつつくような書き方をした。
日経BP onlineで発表されている、多くの方に読んでもらう前提で書いている文章であるならば、願わくば簡単な他人の悪口を書き連ねるような文章は控えていただければと思う。



気を取り直して、以下、内容についての批判を4点挙げる。


1.

 ノーベル平和賞では国際間のパワーバランスという「対称性」が最も重視されますし、文学賞でも欧州と米国、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の文化的バランスに細心の注意が払われます。物理学など勉強していると、論理的に厳密であるのが良いように思い勝ちですが、現実の人間社会ではもっと大きな調和が決定的に重要な役割を果たします。

 湯川博士ノーベル賞は高い専門業績に対して与えられたものでもありますが、湯川博士ご自身がその社会的意味や科学者の責任を自覚され、パグウォッシュ会議などに奔走されたのも、地球と人類の存続のため「崩れたバランス」を回復するための献身でした。論理の上では「比喩」でしかありませんが、専門的見地という近視眼を超えた人間にとって重要な仕事を顕彰することに、ノーベル賞は大変意識的なのです。

 これがさらに「経済学賞」になると、一方で「経済の均衡」という数理モデルの対称性が重視されますが、他方「貧困撲滅と開発経済」などの観点では、文学賞や平和賞以上に「平等」あるいは「共生」のバランスも重視されます。ノーベル賞は一種の「均衡回復装置」失われたバランスを取り戻そうとする、国際社会の調停者の役割を果たそうとしています。その全体像を、大変に価値あるものとして、私は理解しています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?P=2

と書いておきながら

 試みにノーベル自然系3賞の受賞者を年代別、国別に集計してみると、45年以後、米国科学者への授賞が急増して、冷戦後期以後は全体の6割を占めているのが分かります。といってもこれは「米国生まれの米国人」ばかりが優秀なのではなく、欧州も日本も含めて、世界の知性が米国で活躍の場を得ていることを示すものです。20世紀後半、米国は「世界の科学の器」として機能し始めます。またこうした人事の交流に、日本の大学・研究機関は大変に消極的であり続けます。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?P=5

と続けている。
これでは筆者がノーベル賞を「均衡回復装置」として見ているのか「高度な知性を持つことの証明」として見ているのか全く分からない。都合の良いようにその都度ノーベル賞と言うものを解釈し、一貫性が無い。以前の文章にも「語彙の一貫性が無い」と批判したが、言葉の定義に一貫性を持って語っていただけないと、読者としては筆者の言いたいことが分からず混乱するだけである。
一つの語彙でも複数の意味を持っているのは当然ではあるが、一つの文章中では意味を一貫させるべきであろう。複数の意味を使い分けながら論理展開をさせてしまうと、単なる言葉遊びに終ってしまう。


2.

 こうした「鎖国」体質とも言える日本の特徴には、明確な起源があります。日本の大学はそのスタート以来、世界的に見て特殊な成り立ちをしているのです。


 明治維新以来、日本での科学技術研究は、すべて「富国強兵・殖産興業」という国の大目的の下に統合されていました。


 戦前の日本国内には7つの「帝国大学」がありましたが、北大、阪大、名大は理科系学部しかなく、すべての大学は本質的に「軍事研究」を通じて、国に奉仕することが、唯一最大の目的でした。最近でこそ、特許などの「知的所有権」が幅広く問題にされるようになってきましたが、日本では旧来「先端技術開発の結果を個人で特許化する」ということは、それこそ非国民扱いされかねない「非常識」とされてきました。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?P=5

日本で特許法が制定されたのは日露戦争以降である。明治初期には個人で特許化する事が非常識なのではなく、そういう概念が無かっただけであろう。
また特許が発明された後は、筆者の書き方だと国が特許を持っているかのような書き方だが、特許を持っていたのは企業である。「軍事研究」と言っても別に国が特許を独占していたわけではなく、三菱等の大財閥が事業の一つとして軍事部門を持っていたに過ぎない。もちろん軍部が持つ特許も存在したであろうが、特許数全体から見ればそれほど大きな比率を占めていたとは思えない。
どちらにせよ特許が個人で持てなかったことには変わりないのだが、それは後述する3の批判と併せて考えていただきたい。


3.

 「公の予算」で研究させていただいている。そこで得た成果はすべてお上のために奉仕、奉公してこそ価値を認められる。そういう暗黙の了解です。一例を挙げましょう。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんが島津製作所社内で得た特許関連の手当ては1万1000円で、特許は社のものになりました。世界のほぼすべての国の科学者に理解不能なこの「日本人科学者特有の心性」の原点は、戦前以来の「軍事科学への貢献」を中心に発展してきた、日本の研究機関の体質にあるのです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?P=5

田中氏が研究者として企業らスポンサードされて研究したと言うものであれば特許は個人のものになるべきであろうが、田中氏は島津製作所の社員であり、その就業時間中に特許が発明されたのであるから、作業の成果として会社が特許の権利を得るのは当然のことであろう。これは社会人の目から見れば常識と言える。
これは日本だけの話ではなく、自社の社員が就業時間中に与えた仕事の中で得た特許を個人の物にしている所が多いとは思えない。例えばマイクロソフトgoogleIBMと言った会社の特許が個人に帰属しているなどと言う話は聞いたことが無い。
単に田中氏と島津製作所の関係が雇用関係にあったからこその結果であって、「戦前以来の日本の研究機関の体質」等と判断するのは、事実を正確に捉えているとは言えない。


4.

 ここで「頭脳流出」という言葉の意味を改めて考えてみましょう。英語では「ブレイン・ドレイン」と言いますが、この言葉がとりわけ深刻な意味を持つのは世界各地の発展途上国においてです。旧植民地国では、出来の良い学生がきちんとした勉強をするためには旧宗主国に行かねばなりません。欧州などに留学して、そこで成果が上がると、欧米の研究機関に留まって母国に帰らなくなってしまいます。


 すると、人材は出てゆく一方で、旧植民地はいつまでたっても経済的にも知的にも貧しいままという現象が永続します。これが国際的な「ブレイン・ドレイン」の実情です。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?P=5

このような実情が有るのであれば、

 でも、ノーベル賞を10個も取った先進国で、主要大学の教授会メンバーが、ほとんど自国出身者だけというのは、極めて例外的です。こと学術に関する限り、日本という国には極めて強固に、鎖国的な「人事の非対称性」が存在しているわけです。日本は「鎖国病」に罹っている、と言ってよいでしょう。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081208/179530/?P=4

と言う筆者の意見はやはり誤りであろう。日本が鎖国しているのではなく、「旧植民地が無いので日本に流入してくる外国人が居ない」と言うことなのではないか。
国際的な公用語としては英語や仏語が有効であり、ネイティブに使える方も多ければ、学ぶ方方も日本語よりは圧倒的に多いであろう。そうして学んだ言語で自国以外の大学やら研究機関に進んだ結果、英語・仏語圏の大学に於いて教授会メンバーが多国籍になるのも当然であろう。つまり、門戸を開いて大大的に集めた結果と言うよりは、単にその言語を使う人が自国民だけではないという非常に単純な理由ではないか。



以上が筆者の文章に対する批判である。


日本の大学のあり方についてもっと考えていくべきだ、と言う点について異論は無い。
私としてはもっと産学連携を進め、企業の知財部門の一部をアウトソースするような関係を築くべきだと思っている。大学は生徒の授業料以外からの運営費を賄えることになり、運営費確保のためにと「定員を埋める為に質の低い学生を入れる」事や「反社会的行為を起こした学生を庇う」と言った必要が無くなり、大学のレベルが一定以上で保てるようになる、と言うメリットも出てくる。大学のレベルが保てれば研究の質を落とすことも無いだろう。
また官学連携とでも言うべきか、国費で「国立研究機関」と言うものを作るのではなく、大学の研究室にその役割を担ってもらうと言う方法もありだろう。こうすれば公務員の天下り先を増やさずに多くの研究をすることが出来るようになるはずだ。
こうして大学が研究機関としての意味合いを強めてくれば、偏差値によって進学先を決めるような今の状態ではなく、やりたいことによって進学先を決められるようにと、大学受験の意味合いが変化する。大学受験の意味合いが変化すれば自ずと高校のあり方も変わってくるだろうし、行く行くは義務教育のあり方を話し合う事にもなるだろう。


日本が直さなくてはならないのは鎖国病ではなく、大学受験の偏差値病だ。