ブログのあり方と法

小寺信良の現象試考:「撮影」の暴力化について考える」について。

 そこで問題になるのが、「報道の自由」をどう考えるかである。元々報道の自由とは、「例え利害関係者に都合の悪い情報であろうと、真実を広く知らせる権利を担保する」ことにある。権利は義務と表裏一体であるから、これは「利害関係者に都合の悪い情報であろうと、真実を広く知らせる義務を負う」と言い換えることもできると、筆者は考えている。


 ここで重要なのは、本来守られるべき自由とは、義務と権利の束であるという点だ。情報に人に広く知らしめること、すなわち報道は、この権利と義務によって常にスタンスが正常化される。最近はマスメディアでも、この義務を果たさないところが出てきているが、それはもう報道機関として正しく機能していないと判断されるリスクを負うことで、広告の減少といった制裁が社会から加えられる。

報道機関を性善説で語る事はできず、「最近は報道機関として正しく機能していない」のではなく「常に報道機関は正しく機能していない」と言うのが正しい。報道機関の目的が企業としての利益を求める事であるならば、自らの利益の為に偏向報道をすることは辞さない。ただ夫夫の報道機関毎に求めている利益の源泉が違う為に右寄りだったり左寄りだったり、政府寄りだったり国民寄りだったりするだけのことだ。

 米国ではブログが新しい報道メディアとして確立するに至ったが、それは実名や顔出しなどで信頼を勝ち取り、批判されるリスクを負っているから成立する話である。日本でブログが報道の役目を果たさないのは、その多くが情報発信に対してのリスクを負うことを匿名によって避けているからであり、批判もされない代わりに信用もされないという、宙ぶらりんな状態になっている。


 つまりネットでリスクを負わずに情報を出す場合、「報道の自由」は成立しない。むしろそれは、「表現の自由」の問題と考えるべきである。しかし表現の自由もまた、創作する権利と、他者の人権を侵害しないという義務の束である。

についても、別に匿名であるかどうかは関係が無い。その個人が開設しているブログ自体が批判の対象となり、炎上し閉鎖されるかもしれないと言う事自体がリスクとなる。それは長く続けているブログであれば長く続けているだけリスクが大きくなると言って良いだろう。「批判される事がリスク」であるならば、批判の窓口さえ設けていないこの筆者のコラムの方がリスクを負っていない発言であるとさえ言えるのではないか。
現に筆者は次のページで

では匿名発信により訴訟のリスクが回避できるならば、やったもん勝ちか。


 残念ながらそんな勝手が許されるほど、日本のネットは甘くはないようだ。行動に問題があれば確実に炎上し、場合によっては実名がさらされ、社会的な抹殺が行なわれることになる。これは情報発信者が匿名であればあるほど、起こり得る転覆である。筆者としてはそれを肯定するわけではないが、現実としてそれらの行為がなんらかの抑止効果をもたらすまで、あと少しではないかと感じている。これはこれで、非常に激しい痛みを伴う監視社会の誕生であろう。

と、匿名ブログであっても内容によって大きなリスクを背負い込む可能性を示唆している。つまり、匿名ブログが無リスクであるからこそ説得力を持ちえず、それが故に報道メディアとして成立しないと言うわけではないのではないか。

 では匿名性を維持した上で、モラルを意識させることは可能だろうか。ここで無責任な中傷は、自分のことを棚に上げることで可能になると仮定してみる。例えばイチローの三振を非難できるのは、自分がイチローより優れたバッターであるかという問題を棚上げするから可能なのである。


 この理屈で行けば、自分の姿を顧みれば、他人の容姿を中傷することは難しくなるはずである。したがって今回のようなリアルタイムの書き込みを行なう者は、システムとしてWebカメラで自分撮りすることを必須にすればいいのではないか。そのカメラの映像を公開する必要はないが、つねに画面の片隅に自分の顔が写っているわけである。すなわち自分自身のアイデンティティを意識させることで、自分のことを棚に上げる精神状態に落ち込むことが阻止できるのではないか。


 もちろんこれは試考であり、当人がものすごいナルシストだったり、本気で美男美女だった場合は無効である。またこの実現が現実的だと考えているわけでもないが、人の行動を深層でコントロールするシステムをデザインするというのは、可能なのではないかと思う。

古来より「人の振り見て我が振り直せ」と言う言葉に表されるよう、他人の失敗に対しては自省を促すよう奨められてはきているが、未だに多くの日本人がそう言った感覚を持つようにはなっていない。そしてこれは人が人である限り仕方が無い事ではないか。
上の例で言えば「イチローの三振を非難できるのはイチローより優れたバッター」だとするならば、イチローを非難できるバッターが現在どれだけいるのだろうか。現役を離れた元一流バッターである野球解説者の方方でさえ「今のは良くなかった」と言うことすらできないのではないか。また例えば、全ての政治家について「その政治家よりも優れた政治家で無い限り」批判ができないのだとしたら、政治家以外の誰も政治批判は行えない事になってしまうのではないか。
私は社会に出てから「人の振り見て」をなるべく実践しようと心がけてきたが、それを心がけると他人の非礼な態度を何処まで批判してよいものかと悩む事が多くなった。知人に受けた屈辱的な発言に「こうは成るまい」と黙って笑って受け流す行為は大切な事ではあろうが、ではその知人が今後もそう言った言動を繰り返す事が良いこととも思えない。その場合、何処までを非難して何処までを許容するのかと言うのは、もう自分で判断するしかない。
ただ私は、無責任で非生産的な誹謗中傷をし続ける事が良いことだとは言わない。筆者の文章の中で「中傷」と「非難」そして「批判」と言う言葉が同じように使われているので、私の書く文章に混乱を抱く人がいるかもしれないが、私としては「中傷」はしないが、根拠が在り代替案のある場合の「非難」はするし、「批判」はすべき事だと思っている。最近問題になっている「死に神問題」や「WaiWai問題」の何れもが「中傷」であるから問題になっているのではないか。内容が確りした上での非難であったなら「死に神問題」がここまでの問題になっていたとは思わないし、一部の日本文化に対する批判であったなら「WaiWai問題」などと言うことはおこり得なかった筈だ。
しかし非難も批判も頭を使って読まねばならないので非常に疲れる。なので頭を使わない中傷の方が流行りやすい。日本のブログが報道メディアとして確立していないのは、多くの方が日常生活の不平不満を綴っているだけに終わってしまい、内容が批判や非難ではなく中傷で終わっているからではないかと思う。


中傷のほうが共感しやすい。例えば「○○は悪い奴」と言う中傷に共感する人が10人いたとしたら、「○○の××と言う部分はおかしい」と言う非難に共感する人はそれよりも少なくなるだろう。何故なら「○○」の悪いとされる部分が「××」と明確にされることによって、人によっては「××ではなく□□の部分がおかしい」とする人などに分かれるからだ。「○○の××と言う部分は△△にすべきだ」という批判であればもっと共感する人は減る。「今の日本政府は悪い」と言うのは多くの人に受け入れられやすいが、「今の日本政府の自動車制度はおかしい」とすると共感者は減り、「今の日本政府の自動車制度はおかしいので、重量税を見直して増税すべきだ」となるともっと共感者は減るだろう。
つまり、具体的な情報が増えれば増えるほど共感できなくなると言う事であり、共感者を求めようとするためのブログであればその情報はなるべく少ない方が良くなる。日本人にとってのブログとは、他人と共感するためのツールでしかないのである。
アメリカでブログが報道ツールとして確立しているのは、アメリカの社会に於いてはブログと言うものが共感するための道具ではないからではないか。それは単一民族国家である日本と移民国家であるアメリカとの差であるように思うし、唯一絶対神キリスト教を信奉するが故に他人との共感をあまり必要としないアメリカと、八百万の神によって絶対的な価値観と言うものが存在せず、所属する集団の倫理に従うのを是とする余り共感を必須とする日本との差とも言えると思う。
この点は日本特有の違法行為を産む温床に成っていると思う。

 米国の違法行為というのは、一言で言えば「ムシ型」、つまり害虫型だ。ハエや蚊のような害虫と同じように、小さくても、その意思で動いている。個人の意思で、個人の利益のために行うのが、ムシ型違法行為だ。米国は自由競争、自己責任の国、あえて違法行為を行うとすれば、何らかの個人的利益のために、個人的動機で行うのが通常であろう。


 そういう違法行為は、通常単発的だ。何十年も続いているということはあまりない。それに対する対処方法も単純だ、個人の意思で、個人の利益のためにやっているのだから、その個人に厳しいペナルティーを科して思い知らせてやるのが効果的だ。害虫に対しては殺虫剤をまくというのと同じことだ。


 それに対して、日本での違法行為には「カビ型」という特徴がある。個人の利益のためにやっているのではなくて、組織の利益のためにやっている。組織の中の一定のポストに就くと、好むと好まざるとにかかわらず、そういう違法行為に手を染めざるを得ない。違法行為は継続的・恒常的に行われる場合が多く、一定の分野全体、業界全体に、ベタッとまとわりつくように生えていることも珍しくない。なぜそうなるかというと、背景に何らかの構造的な要因があるからだ。

「カビ型違法行為」の恐ろしさ


「日本人と言うものは遺伝的・文化的な性質によって、欧米人のような社会生活を送る事は難しいのではないか」という点で議論をし、現在の日本で常識とされている事をもう一度見直してみると、新しい考え方ができるように思う。
例えば「核家族化は良いことなのか」とか「女性の社会進出は薦めるべき事なのか」とか「人権と言うものを認めるべきか」と言った点である。日本の社会にとっては名目収入よりも所属する地域の人間関係(=社会関係資本)が高かったからこそ、幸せで安全な生活環境を手に入れることができたのではないだろうか。名目収入の多寡を競ってそう言った関係を蔑ろにし、幸せや安全な生活環境は金銭で手に入れるような今の社会が、実質的な生活環境の向上に繋がっているとは私には思えない。


法とは人の生活を縛るものではなく人の生活の支えとなるべきものである。であればそろそろ欧米を見習った法ではなく、日本的な文化を考えた上で法を制定するのが重要なのではないか。明治時代以降、欧米列強を範とした法整備を進めてきた日本であるが、アジアの先進国として後続するアジア諸国の模範となるようなアジア的憲法と言うものを考えていくのも重要だと思う。