「理解力が足りない」

16:非情のコメントブレイカー(後編)」について。

『私怨は個人のブログでお願いします』
『そういうのは個人のブログでしていただきたい』
『私憤は自分のブログでどうぞと書かれて当然』
『ブログ程度にとどめてください』
『お仕事としてのコラムと個人的なブログとの区別はもう少しつけて頂いても良いかなと思います』
『素人のブログでも十分』
『私的感情を発表する場が欲しいのならば、ブログが適当かと思います』


 私はブログというものをやっていないし、たくさんのファンがいるとか、しょっちゅう告知するようなことがあるのであればともかく、文章を売ることを生業にしているので無償で開設するブログに意義を感じないからやっていないのだけど、たった7件とはいえ、このコメントがとても怖ろしい問題をはらんでいると感じたのは私だけだろうか。皆さんは何も感じませんでしたか?


 このコメントが掲載されたのは、言わずと知れたクロネコヤマトとサムライの回だ。コメント欄には“クレーマー”“私憤”といった文字が踊り、たいへんな盛り上がりをみせたので記憶にも新しいと思うが、その中にこの7件が含まれていた。


 この7人が言わんとしていることはこうだ。ブログでなら私憤をいくら書き連ねてもいいし、他人をこきおろしてもいいと。


 そして、この7人の“倫理観の欠如”を疑わずにはいられなかった。すっかりネット社会に毒されてしまったのかもしれない。私憤はブログで晴らせとは。あるいは、ブログでなら私憤を晴らしてもいいという概念を刷り込まれたまま、こんにちに至っているのか。

降旗氏はジャーナリストらしいが、他人の発言を曲解して失言とし、鬼の首を取ったように「こんな酷い事が許されるのでしょうか」と騒ぐのは、昨今のマスコミの姿を如実に現しているように思う。
以降の文で

 このコラムの作者がどういう狙いでそんな皮肉混じりの嫌味な文章を綴っているかに思いをめぐらせてほしいところですが、いずれにせよ、心に何かしら不満を抱いている人の多くに、気に入らないものは攻撃するという思考がインプットされているのかもしれません。

と、人の発言には言葉の裏を読むようにと薦められているのに、自分に対する批判に対してはそのように感じられないのだとすれば、非常に残念である。


個人ブログなら何をやっても良いという訳ではない。匿名なら何を発言しても良いというわけではない。だが、ブログは多くの愚痴などで溢れているのも事実であり、ネットを利用する人の多くは単に「ブログには何が書かれていても仕方が無い」と、理解しているのではないだろうか。その上で上記7つのコメントを読めば「ブログでなら私憤をいくら書き連ねてもいい」と言っている訳ではない事に気付きそうなものである。
個人ブログであれば「読まない」と言う選択肢を採る事ができるが、氏のコラムは日経ビジネスオンラインに掲載されている以上、メールマガジンで必ず更新情報が来てしまい、なかなか無視することはできず、必然的に多くの方に読まれることになるだろう。そう言った方方に対して「デキルヤツの条件」と銘打ったコラムに「6:クレーム処理はできますか」と言う内容を載せるのは、果たして妥当なのだろうか。


ちなみにそのコラムについては、非常に不愉快な思いをした。特に

 いくら温厚な私でも、こうも堂々めぐりが続き、のらりくらりと躱されてばかりだと嫌味のひとつも言ってやりたくなる。だから言ってやった。陰険だぞ、私は。


「ぼくは発注票をくれと言っただけで、料金は払っていない。そのうち客にはなるかもしれないけれど、現時点ではまだ客ではないわけだ。お金を払ってないんだからね。ぼくのことは放っておいて次の配達先へ急いだということは、料金を払った人を優先したということだよね」
「いえ、決してそういうことでは」
「いや、そういうことだよ。おたくはドライバーにそういう教育をしているってことだよ。お金を払ってない人間は後まわしにしていいと指導していることになるよ。おたくにもマニュアルがあるでしょ、そこにそう書いてあるんでしょ」
「いえ、決してそんなことは」
「じゃあ何て書いてあるか言ってみなさいよ。届け先の人間が発注票を欲しいと言った、手許にはないが車に置いてあると応えた。しかし、車に戻ったら発注票の予備がなかった。そういうときは放っておいて次の配達先に急げと書いてあるんでしょ。それがおたくのマニュアルなんでしょ、違う?」
「そのようなことは絶対にありません」


 私は、実はこの“絶対”という言葉を待っていた。


 ふだんも取材をするとき、それが口先ばかりの能なし官僚だったり、悪徳の匂いをぷんぷん撒き散らしている政治家だったりすると、私はこういう話しの持って行き方をする。陰険だぞ、ジャーナリストは。


 「絶対にないと言ったね。だったら訊くけど、おたくのドライバーは配達先の女性を絶対に襲ったりしないと言い切れるね」


 配送センターの責任者という男性は黙ってしまった。


(略)

 だが、糾弾であれ何であれ、叱るときは逃げ道をひとつ用意してやるのがデキるやつのやり方だ。という、とてもいいことを、以前、誰かが書いていたような気がする。だから、私ももういじめない。

6:クレーム処理はできますか(3p)

の件は、あまりにも酷かった。自分に関するAと言う問題に、全く関係のないBと言う問題を持ち出して相手を非難するのは姑息であろう。これがまだ関連する問題であれば構わないのだが、1人の社員が引き起こした事件をもって、この配送センターの責任者に詰め寄ると言うのはあまりにおかしいだろう。
例えるなら、「三菱ふそうのトラックのハブが壊れた」ことを理由に今後三菱重工が開発する飛行機に「トラブルが無いと絶対にいえるのか」等と詰め寄るようなもので、問われた方としては意味不明だし、単なる悪質なクレーマーの一人なのだろう、と判断されても仕方がなかろう。これまでに1度も不祥事を起こした事のない人や団体はありえないのだから、過去の問題を例に挙げて相手を追い詰めるやり方に効果があることを自慢げに*1書き連ねるのは、今後このようなクレーマーを増大させかねないという恐れを感じないのであろうか。
これはマスコミの報道によって硫化水素の作成方法が広まりそれを用いた自殺者が増えているという事について、マスコミが全く反省しない事と同じである。そう言う意味でも氏はジャーナリストと言えるだろう。


コラムの目的は何だろうか。目的が読者への啓蒙だとするなら、理解力の低い方に理解できない言葉で書き連ねては意味が無いではないか。理解できない読者に「理解力が無いなら本を読め」「長文が苦手なら本を読め」と上から見下ろすのではなく、理解できる言葉を使うほうが効果的であろう。
私も以前は氏と同じように「理解できないやつは」と自分の言葉で語っていた時期があるが、自分の目的が「相手に理解してもらう事」であるならば、相手の言葉で語るべきだと思ってそれを実践している。例えば特定分野の会話であればなるべく専門用語を排除する、誤用が広まっている言葉の使用を止める、誰にでも意味が通じる平易な言葉で語るなど、である。
またクレームを付ける際も、目的を持つ事がとても重要である。何故ならばクレームは交渉事だからである。全ての交渉にとって大切なのは「こちらの感情を表す事」ではなく、「こちらの要求に限りなく近い条件で妥協してもらう事」なのだから、自分の要求がはっきりしない限り交渉をすることはできない。
そして目的の達成を第一に考える。決して怒気を含んで相手の非を罵るのではなく、丁寧に自らの立場の説明して「次回も利用したいから是非今回の件については前向きに検討して欲しい」と言えば、相手も十分理解してくれる。
事実、私はこの方法で自分の要求が通らなかった事は無い。しかし周囲にクレームを付けて「言いたい事を言ってやったぜ!」と自慢げに話す方には、製品に問題があったとしても対応してもらえなかったと言うようなことが多い。世の中には天才が溢れているわけではないのだから、「私は自分の言葉で説明するので、お前が理解しろ」と言う姿勢では自分の意見が伝わらないのは当然であろう。
氏はそう言う事を踏まえたうえで、それでも尚読者に理解力を求めるのだろうか。


氏のコラムから私が感じることは(数作品しか読んでいないが)、「ああはなるまい」である。

*1:少なくとも私はそう感じた