コメントに対する返事

以下、このエントリーに対してbuglerさんから頂いたコメントに対するお返事です。

国の舵取りは経営者がすべきか否か

私が抱く「株式会社日本」の成功例としては「「売る」の違い」で記述している青森県になります。株式による配当はありませんが、会社と言うイメージには近いかなと。中小企業が多かったり特産品の生産がメインで販路の確保がし辛いような場所では、官主導で営業をしていくのも良いのかもしれません。


そう言う意味では官民一体となって経済活動を活発にしていくことは重要だと言えますが、政財界にまともな指導者が居るかどうかと言う話になると別です。

 経営陣は「残業するな」と口うるさい。書店にも「残業ゼロ」をうたった本が山積みだ。「過労死防止」「家族団欒(だんらん)」なんてきれいごとを並べているが、この“残業ゼロブーム”のウラには、外資コンサルタント会社の思惑も絡んでいる。付き合わされるサラリーマンはいい迷惑だ。


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「上は『仕事と家庭を両立させるため』だの『効率アップ』だのと、もっともらしいことを言いますが、ただでさえ少ない給料から残業代がカットされ、月収は5万円以上減りました」


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経団連は例の『ホワイトカラーエグゼンプション』を“復活”させたい。『残業代ゼロ法案』『過労死促進法案』、はたまた『労働者定額使い放題プラン』と、散々バッシングされて廃案になったあれです。そこで最近やたらと『ワーク・ライフ・バランス(WLB)』という言葉を持ち出すようになった。要は、残業代ゼロを“シュガーコーティング”して、名前を変えているだけなのです」


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「最悪なのは、WLBを隠れミノに自宅で働かせ、残業代をピンハネするケースです。実態は“名ばかり管理職”に昇進させて残業代をケチる、ファストフード店長のケースと何ら変わりません」(労組関係者)


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「経営者にすり寄り、『御社もWLBで労働生産性を上げましょう』『残業ゼロは時代の流れ』なんてプロジェクトを持ちかけるコンサル会社が続出です。成果主義ブームが一服したので、本を書いたりセミナーを打って、次のブームを仕掛けているだけなのです」

中間管理職以下はヘトヘトだ!残業ゼロブームには裏がある

名ばかりの管理職にして残業代をケチる例としては、先日SHOP99の店長が起こした訴訟が記憶には新しいです。

 訴状によると、清水さんは2006年9月に入社した。昨年6月から10月にかけ、店長として都内3店舗に勤務したが、長時間労働などが原因でうつ病と診断され休職中。店長として管理職扱いされ、残業代など約75万円が支払われなかった。
 店長時代は長時間労働が続き、特に昨年7月25日から8月22日の間は休みがなかった上、給料も減ったという。

「SHOP99」元店長が提訴=管理職で残業代不払い−東京地裁支部

経営者の目的は利益の追求であり、自由競争は労働者の生活を脅かすことになるからこそ、一定の基準を設けて国民を蔑ろにした経済発展を抑制しているのではないでしょうか。国が富まねば国民生活の向上は果たせず、他国からの侵略に備える事もできませんが、一部の特権階級の方方の生活安定のためだけに大多数の国民が苦難の道を歩むのもおかしな話です。
こういう記事もありましたね。

「消えたチーム」というのは、宮本さんのいる部署の隣のプロジェクトチームだ。ここには、中途入社した彼の同期5人が配属されていたという。その5人がそろいもそろってメンタルヘルスを悪化させた。うつや自律神経失調症などを病み、2年目には全員いなくなっていたという。


「結局、プロジェクトは立ち行かなくなり、会社は事業から撤退することになりました。こんなことは今に始まったことじゃありません。大量に新人を採用し、彼らがいなくなると、また募集をかける。そんなことをしょっちゅう繰り返しているんです、うちの会社は」

チーム全員がうつ退職 「人材使い捨て企業」で何が起きたか

日本国内の人材を使い潰した後は海外の人材を使い潰す予定のようです。

 自民党は外国人の定住を推し進めるための基本法制定の検討に入った。日本で一定期間働く外国人の受け入れや管理政策を担う「移民庁」を設置するほか、不当な低賃金労働などが問題となっている外国人研修・技能実習制度を抜本的に見直す。少子高齢化による人口減少の流れを踏まえ、海外からの人材確保体制を強化する。来年の次期通常国会への提出・成立を目指す。


 自民党の国会議員約80人で構成する外国人材交流推進議員連盟(会長・中川秀直元幹事長)が今月中旬に提言をまとめる。ただ、政府・与党内には治安や国内労働問題から慎重・反対論もある。

自民、外国人定住へ基本法・「移民庁」設置など検討

経団連の意向に従う現与党の姿勢は、経営者が国の舵取りをしているとも言えます。違いは実行時に「次の選挙があるので」と国民感情を汲み取るか否かではないでしょうか。だとすると、経営者による舵取が大多数の国民にとって良い物になるとは思えません。
これは、経済活動においては国を文化や民族の基盤として考えないから起きる問題だと思います。経済的価値の無いものや採算の取れないものであっても保護育成に努めたり、人口の減少に歯止めを掛けたりと、自国らしさを保ったままで発展する事が国にとっては重要なのではないかと思うわけです。
それに会社は辞めれば良いですが、国はそう簡単に変えられませんしね。言葉の壁や文化の壁、それまで築いてきた人とのつながり等、その国で培ってきたものは簡単に捨てられるものではありません。

大統領制について


民主主義が万能なものでは無いというのはその通りだと思います。
例えば日本では、1925年に男子普通選挙が施行されました。それまでは国税の納付額が一定額以上無いと選挙に参加できなかったのですが、その制限が撤廃されました。
その結果、日本は日中戦争へと踏み出し、太平洋戦争へ突入していきます。当時不況下にあった日本に於いては第一次世界大戦時の好景気が忘れられず、「戦争することこそ好景気になる手段だ」と思われており、低所得者層が戦争に前向きな与党を選挙によって後押ししたことが戦争を始める切欠になったとも言われています。「戦争で得るものはない?」にまとめてありますのでご一読を。
多くの人にとって(私もその傾向がありますが)「今の生活が厳しいから」と言う理由で過去の政策に対する判断を現政府にしている時点で、政治と言うものが大衆迎合になってしまうのも仕方が無いでしょう。学歴はともかく知的レベルの低下は大衆娯楽に於いても現れているようです。

 若者の活字離れが進む中、映画会社が洋画の字幕づくりに苦慮(くりよ)している。文字数を減らすだけでなく、漢字の使用を最小限にし、極力ふりがなをふる気の遣いよう。「読み」だけでなく、中学生レベルの歴史的事実すら知らないというケースも。こうした事情を反映し、アニメだけでなく、実写映画でも吹き替え版が急増。映画業界では「若者の知的レベルがこれほど下がっているとは…」と驚いている。(岡田敏一)


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 しかし、ここ数年、13字の字幕を読み切れないという若者が増加。映画離れを食い止めようと、製作、配給会社では苦肉の対応を余儀なくされている。字幕づくりの現場では、10字前後で区切って行数を増やしたり、漢字を省いたり…。さらに、字幕を必要としない吹き替え版へシフトする動きもある。


 東宝東和では8月から10月の3カ月間で計3本のハリウッド大作を公開するが「吹き替え版を過去最大級の手厚さで用意する」と話す。ワーナー・ブラザーズ映画も「ハリー・ポッターシリーズの場合、吹き替えが6割で字幕版を上回っている。その他の作品でも吹き替えの比率は年々高まっている」と説明する。


 字幕以前の問題も。ある映画会社の製作担当者は「スパイ系作品の試写会後『ソ連って何ですか?』、『ナチスって何ですか?』との感想が寄せられ、本当に驚いた」と打ち明ける。

映画字幕で業界が四苦八苦 若者の知的レベル低下が背景か?

とは言え、普通選挙に変わる解決方法を思いつかないのが現状です。それに各先進国が「普通選挙が行われている事が健全な民主主義国」であるとしているようですので、日本のみが別の方式に変えていくことも難しいでしょうしね。平和な世の中に於いて急激なイデオロギーの変化が行われないのは仕方が無いことです。


政治離れが著しいと言われている昨今、関心を高める起爆剤として大統領制の導入は効果があるかもしれませんが、それもまた結局一過性のものでしかないように思います。
それに今の日本にも村社会は存在しています。例えば「KY(空気読め)」なんて言葉が生まれてくるのは村社会の影響を色濃く反映しているからこそではないでしょうか。人の行き来が自由にできるようになったので物理的な「村」と言うものに縛られることは少なくなったように思いますが、家族以外で集まった際の最小単位を「村」と称した場合、「村社会」と言う言葉に内包されているイメージがそのまま当てはまるように思います。あの小泉元総理の在任中のような行き過ぎた熱狂、小泉氏を批判すること自体が悪かの様な雰囲気は忘れられません。
またTV番組のコメンテーターが顕著ですが、コメンテーター同士で異なった意見を言い合うような場面は非常に少ない。4人並んでれば4人が同じ事を言う、1人が言ったことに3人が追従する、とまあそんな感じです。例えばみのもんた氏の番組においてコメンテーターが氏と激しく意見を交わしながらも円満にコマーシャルへと繋ぐことができる日が来たら、日本から村社会が無くなったと言えるのかも知れませんね。

新天地と寿命


宇宙開発がストレスの発散になる、と言うのは初めて聞く意見でした。
私にとっては日本も広すぎます。多くの人にとって世界でも広すぎるのではないでしょうか。一生の時間は限られているわけで、その時間をフルに使っても世界の広さを十分に堪能できるとは思いません。寿命が200年もあればもう少し楽しめるかもしれませんね。
そう言う意味では確かに200年生きられるのは幸せなことかもしれませんが、では200年も生きるとなると日本の人口はどれだけ増えていくでしょう。果たして全世界の人が生きていけるだけの余裕があるでしょうか。その場合は増えすぎた人口の捌け口として宇宙が確保されていると良いのかもしれませんので、そう言う意味では新天地の開発と長寿化はセットで考えれば物理的・制度的な問題は無いといえます。


残るは精神的な問題です。例えば今の日本でどれだけの人が長生きすることに幸せを感じられるでしょうか。現在65歳の定年は180歳くらいになるでしょうし、20歳から働き続けるとしたら160年間働くことになります。順風満帆であれば良いでしょうけれど、途中で道を踏み外してしまった方の再チャレンジ制度がどの程度整備されるか、再チャレンジした際に何処まで復帰することができるのか…長生きをすると言うことは、経済的な意味でも精神的な意味でも貧富の差が大きくなるだけのような気がします。
200年の奴隷生活と50年の貴族生活ならば、私は後者を選びます。働きながら好きなことができるならまだしも、前述したような労働環境で100年以上働くには、私の心は弱すぎます。


また社会システムから見た場合、構成要因である人の寿命が短いほうが新陳代謝が活発と言え、システム自体が腐り辛いかもしれません。寿命が短いからこそ後世への名誉を重んじて、人として恥じないような生き方をするかと。まあその場合、個人ではなく家や村と言った小さな集団を主体にした価値基準になっていくだけで、社会システムが腐りやすくないと言うのは妄言かもしれませんが。




あとふと気になったのですが、我我にとって「国」とは「戦う」対象ではなく「作り上げていく」ものだと思っています。政治は手が届かないものではなく自分達で変えていけるという実感が伴っていないのも、結局は既存の権力側による情報操作の一環では無いでしょうか。


色色長くなってしまったので、今回はこのあたりで切り上げたいと思います。ご質問に全てお答えできず申し訳ありません。