「人権擁護」という名の「全体主義」

すべての人が暮らしやすい社会へ、ユニバーサル法制定…与党方針」について。

 自民、公明両党は、すべての人が能力を発揮して支え合う社会の実現を目指す「ユニバーサル社会基本法」を、議員立法で制定する方針を固めた。


 少子高齢時代にあるべき国の形を示そうというもので、国や自治体の責務を明確にする。民主党も同法案に強い関心を示しており、次期国会で超党派で成立する可能性も出てきている。


 ユニバーサル社会とは、年齢や性別、障害の有無などにかかわらず、すべての人がいきいきと働き、社会参加し、暮らしやすい社会のこと。2002年に自民、公明両党の有志が勉強会を開始。03年には与党プロジェクトチームを設立して実現の方法を検討してきた。


 同チームがまとめた基本法の趣旨「元気な日本を創(つく)ろう」では、家族・地域の弱体化、過酷な職場環境、国際競争力の低下などの様々な問題を解決するためには、国民の誰もが元気になれる環境が必要だと分析。そのためには、ユニバーサル社会の実現が「喫緊の課題」としている。


 基本法では、ユニバーサル社会の基本理念を定めたうえで、国や自治体の責務を明記。施策の基本となる事項を明示することにより、総合的かつ計画的に推進できるようにする。特に、国民同士の理解と協力を、ユニバーサル社会を作るための基本と位置付け、必要な法整備と財政上の措置を国や自治体に求めている。


 国民の社会参加や就労を促す法制としては、男女、障害、高齢など各分野ごとに基本法があるが、トータルな法制はこれが初めて。


 基本法の概要は24日、都内で開催されるシンポジウムの席上発表される。シンポジウムには、民主党鳩山幹事長も来賓として出席し、基本法への協力の意向が明らかにされる見通し。

ユニバーサル社会とは何なのかイメージできなかったので、googleで検索したところ、兵庫県健康生活部生活企画局ユニバーサル課のページと新潟市企画調整課のページが引っかかった。それぞれから引用。先ずは兵庫。

年齢、性別、障害、文化などの違いにかかわりなく
だれもが地域社会の一員として支え合うなかで
安心して暮らし、一人ひとりが持てる力を発揮して元気に活動できる社会

続いて新潟。

一人ひとりが,社会の対等な構成員として
お互いを理解し,人間性を尊重し,支え合うことにより
だれもが安心して暮らし,個性を発揮し,自立して社会参画できる

ちなみに、2006年の読売新聞の記事ではこのように使われていた。

【ユニバーサル社会】パソコンや携帯電話など、誰でも使えるように


JIS制定 近く完了


 経済産業省は、パソコンや携帯電話など情報通信機器を、障害者や高齢者がバリアを感じずに利用できるようにするための「情報アクセシビリティJIS(日本工業規格)」の制定を近く完了する。

ユニバーサルと言う言葉の意味について、2年前は「高齢者や障害者も利用しやすい」であったのに、ここ最近は「男女」が含まれるようになり、兵庫県の定義によれば「文化」の差まで取り込んでしまった。これは推進派リーダーの浜四津敏子女史の意向による部分が強いと思われる。理由は「第11回チャレンジド・ジャパン・フォーラム(CJF)2006 国際会議 in TOKYO 議事録」を読んでいただくと分かる。

そして、「日本版ADA法」と言っても、いわゆる障害者差別禁止という人の側面からというより、むしろ社会そのものをユニバーサルな社会にしていこうというところに重点を置いて、そういう角度から法律を作ろうということで取り組んでまいりました。

障害者の問題だけではありません。人種、信条、身分、門地などさまざまな違いによって差別されないということが憲法14条に記されていますが、どんな違いがあってもそれはプラス。そして、「日本に生まれてきて良かった」と多くの方に言っていただけるような社会を、皆さんと力を合わせて作っていきたい。


法案の中身が参照できないのであくまで憶測に過ぎないが、私はこの「ユニバーサル法」という物は、「人権擁護法」以上の悪法ではないかと感じている。
例えば身分や門地による差別をなくせと言う事で、一部企業や自治体に設けられている同和推薦枠というものが合法化される事にもつながりかねない。同和推薦枠がどのような問題を起こしたかは京都市環境局不祥事続発事件に詳しいので、参照してみて欲しい。同和利権の真相によれば、多くの自治体の清掃局員が同和推薦枠によって採用された方であり、加えて年収は800万円弱とのこと。会社員の平均年収が450万弱の事を考えると如何に高額所得者であるかが分かると思う。そしてこの清掃局員は先に述べた同和推薦枠によって推薦された一部の方しか付くことができない、いわゆる逆差別の状態になっている。このような同和推薦枠の存在を多くの自治体が否定しているようだが、真偽の程は分からない。とは言え「在日特権など無い」と言っていた自治体のうちどれだけが本当に無かったのか…
多少ずれたが、浜四津女史の考えるユニバーサル法というものが制定されれば、この同和推薦枠が合法化されることに加え、今後は人種差別を無くす名目で「永住外国人(=在日)推薦枠」や「外国人推薦枠」が、宗教差別をなくす名目で「宗教信者(=創価学会)推薦枠」が、男女差別をなくす名目で「女性推薦枠」等が設けられ、ますます日本人の逆差別化が進む恐れがある。


人生などと言うものが全て自分の思い通りに行くはずが無い。全て思い通りに行くなら世の中に苦悩などと言うものは無く、神仏によって救済されるべき対象も要るはずが無いのだから、宗教などと言うものが蔓延するはずも無い。多くの人が自分の望まざる生活を強いられているのが現状である。
そしてその「自分が何故このような不幸な人生を歩んでしまったのか」と言う疑問に対する答えを、自らの行いや性格・思想と言った内因に求めるのではなく、他人の行いや社会のあり方といった外因に求めるのは、自らを傷つけずに済むので非常に楽である。加えて、見つけようと思えば外因などというものは必ずこじつける事ができる。「社会がこんなだから自由に生きられない」とか「あいつがいたから好きな人に振られた」等である。
ここで「自分が部落出身者だから就職できなかった」とか「私が在日朝鮮人だから就業できなかった」、「女だから昇進できなかった」等、「特定の括りができる事柄」に原因を求めた場合、個人的な問題であっても集団の問題と捉えることが可能になり、特定の不利益を「差別」と位置づけることができる。
そしてそれらは切り口によってどのようにでも分類できてしまう。つまり、世の中から差別と言うものが根絶することは無いということになる。そんな無限に沸く「差別」と言うものの完全撤廃を求めて人権の拡大解釈を求めていくのが人権団体の方方のやり方である。好きになれない。


私は自分の外見によって社会生活を送る上で支障が出ている、既に障害者の位置付けであると言える。しかし多くの方は「外見なんてどうでもいいじゃないか」と言い、私を障害者とは認めない。貴方には経験があるだろうか?初対面の方にいきなり「キモイ」と言われたことが。レジでの会計時に汚物を見るかのような目でお釣りを投げつけられたことが。「顔が怖いから接客しないで」と希望部署に就けなかったことが。これを外見差別と言ってはおかしいだろうか?「健常者は障害者の事が理解できない」のは事実だと私は思う。
自分とは異質なものを遠ざけようとするのは人の本能である。中国で発生している奇形動物の画像を見て、吐き気を覚える方が多いのと同じように、やはり健常者と違う外見を有している人に対して寛容になると言うことは難しいのである。もし寛容であれと言うなら、ベトちゃん・ドクちゃんのような存在に対して、「彼らは彼らなりにすばらしい存在であるから、あのままの姿でいるべきだった」と言えるのだろうか?異質なものを異質として捕らえ正しい姿に戻したいと願うのは、優しさであって差別ではないはずだ!


また、文化の違う方方と無条件で仲良くすることは不可能だ。国とは文化の違いで区切られている集団である。日本の法制度下においてイスラム教のような一夫多妻制は認められない事などは典型的な例であろう。日本には日本の文化があり、それを尊重する方方とは手を携えて行きたいが、自分らの文化を共用して日本の文化を覆そうと言う考えを受け入れることはできない。


だから私は、今の社会に馴染めないからと言って、特定のカテゴリーに属する者だけを優遇するような政策は控えるべきだと思っている。



しかしまあ、制定に向けて力を入れている連中の頭の中がこの程度だから仕方が無いのかもしれない。

竹中/ 言葉というのは、その国の文化であり思想であり哲学だと思います。ですから、バリアフリーも、ノーマライゼーションも、ユニバーサルデザインも、日本にはそういう文化や概念がなかったから、それを表す日本語も生まれなかった。


にもかかわらず、その新しい概念を取り入れようとするときに、日本語にならないからダメというのでは、日本文化にそぐわないものは受け入れられないということにつながってしまう残念さがあります。

http://www.prop.or.jp/cjf2006/gijiroku/upt.html

バリアフリー」も「ノーマライゼーション」も「ユニバーサルデザイン」も、英語圏に昔からあった単語でもなければ、英語圏にそういった文化や思想・哲学と言ったものが昔から存在していたわけではない。「日本にそういう文化や概念が無かったからそういう日本語が生まれなかった」と言うのは浅識極まりないと言えるだろう。「gun」を「鉄砲」ではなく「ガン」と受け入れるべきだったとでも言うのか?
彼女らの言っていることは「その言葉は日本語で上手く説明できないからカタカナのまま受け入れよう」と言っていることと同じ。つまり、「その言葉が何を意味しているのか説明できない」と言っている事に等しい。例えばバリアフリーを直訳して「障壁開放」ではなく「障害者考慮」訳せばより良く意味が通じるように、彼女らがユニバーサルと言う言葉をどう訳すのかは非常に重要な問題である。
「訳せないものは訳せない」とは「女は子宮で考える」と言うことの典型なのかもしれないが、多くの人が正しく解釈できるようにきちんとした言葉で説明をしてほしいものだ。どうとでも解釈できる言葉をソレらしく使うことで上手く誤魔化すのが政治家の十八番だとしても、この発言はあまりにも酷いと言わざるを得ない。



優しさは大事だが、「優しくあれ!」と国から押し付けられるものではない。
それよりも弱者に対する優しさが自発的な行為になり得ない人の心のあり方や、他人に寛容になれない余裕の無い社会のあり方を問題にすべきであろう。働いても働いても暮らしが楽にならず、正直者が馬鹿を見る世の中に於いて、殺伐とした心が蔓延しない筈が無いのだ。政府は法整備によってユニバーサル社会なるものを目指すのではなく、公費削減に基く国民生活の向上にこそ力を注ぐべきではないか。
制度で無理やり心のあり方を押し付けるのは、彼女らが毛嫌いする軍国主義に通じると何故分からないのだろう?