モラル低下の原因

【主張】公教育再生 規範意識の育成が急務 親から子への悪循環断とう」について。

 かつては、朝から晩まで近所の子供たちが外で遊ぶ姿が見られた。異年齢の仲間のなかで自然に学ぶことが多かった。だが、ゲームやネット世代の子供たちは、人と話すより、機械相手に遊び、友人らとのトラブルに対応する方法が分からない。親自身も地域と交流したがらず、きちんとあいさつのできない大人が少なくない。

ゲームやネットの所為にするのは簡単だが、遊戯王やらポケモンやらが流行った(流行っている?)理由は、友達と一緒に遊べるからではないかと思っている。つまり、ゲームの所為で一人で遊ぶようになったというよりは、遊び方のスタイルが変わっただけのこと。ファミコン世代の私にとっては、ファミコンは「皆で遊ぶもの」と言う意味合いが強かった。そもそもお金が無くてソフトの購入本数は限られてしまうのだから、皆が一堂に会してお互いのソフトを持ち回りで遊んだり、一人用のゲームであっても、ゲームの内容を次の日友達に聞かせたりと、ゲームを介しての交流と言うものはあったし、今でもあるのではないかと思う。
ゲームがあるからといってゲームだけやっている訳でもなく、飽きたら公園等で遊んでいたし、どちらかと言えば外で遊んでいる事の方が多かったように思う。友達とゲームをする日は大抵半日授業だった土曜の午後などで、平日の放課後はゲームよりも鬼ごっこやら大縄跳びやらに興じていたように記憶している。


しかし最近は公園や空き地の数もめっきり減ってきたらしく(遊ばせておく土地がなくなったという事なのかもしれない)、子供の遊び場がなくなったという話は聞く。加えて、公園や校庭も最近は安全上の理由や周囲の迷惑を鑑みてなかなか自由に遊ぶ事ができなくなったようだ。もし子供達が外で遊ばないのだとしたら、社会が外で遊べない環境を作ってしまったのではないか、と言うことを疑ってみてはどうだろうか。
貴方の周囲に子供達が遊べる場所がどれだけあるだろうか。そしてそこは十分な広さがあって安全であり、かつその場所で何か問題が起きた場合、貴方はそこの管理者に管理責任を問うことは無いだろうか。そう言う場所が無いとしたら、貴方はどの様な場所で子供達が遊ぶべきだと思うか。
多分私は環境に恵まれていて、小学生の頃は校庭の2倍以上ある大きな公園の近くに住んでいた。その公園は学校の隣に併設してあり、友人らの多くもその公園の近くに住んでいた。少なくとも子供が安全に通学できる距離であった訳だ。多くの子供が遊んでいても十分な広さがあったし、足りなければ学校の校庭を使えばよかったし、そこから5分も掛からない場所は一面の田圃であり、未舗装の農業道路や畦道、水路等で他の遊びをする事もできた。つまり、外で遊べる環境がとても整っていたのだ。
しかし、今住んでいる家の近くには、そう言う場所が無い。近場の公園は車3台止める事ができる程度であり、道は全て舗装路で、裏路地と言えども車通りが多い。加えて好奇心をくすぐるような空き地も無いとなれば、一体何どうやって外で遊ぶ事ができると言うのだろう。
だから外に出ない、ゲームでしか遊べないという事なのではないか。

 以前は「親、師を敬う」「困っている人を助ける」「うそをつかない」などの徳目が、郷土の偉人の伝記や古典など親たちも知っている具体例を通じて教えられた。そして家に帰れば親や祖父母からさらに詳しく聞き、目上の人を敬い慕う気持ちが自然に生まれた。今はそうした機会は極めて少なくなっている。

以前から言っているが、私は、核家族がもたらす弊害はとても大きいと思っており、上記のような問題もその一つに過ぎないと思う。
家における人間関係は親と自分。一人っ子であれば家庭内における人との関わりあいはとても少なくなる。親は親で生活の為に働いて子供の相手をする時間も少なく、その後ろめたさもあって子供を甘やかす。結果、子供の我侭はある程度容認され、子供の我慢する機会やコミュニケーションを取る機会が少なくなる。人格形成時に多くの人とかかわり会う事ができなければ、以降のコミュニケーション能力が問題になってくるのは当然ではないか。

 少年の凶悪事件の低年齢化などで「心の教育」が重視されながら、「価値観の押しつけ」などの批判をおそれ、規範意識について指導をためらう傾向がある。善悪や正義などを毅然(きぜん)として教える指導が必要だ。教師の姿勢と指導力が問われている。

とあるが、実際に問われているのは教師の指導力ではなく、親の躾である。「子供は自由に育てたい」と思うのは勝手だが、単に自分に子供を躾ける能力が無いから放任しているに過ぎないのではないか。そして自分の子供との距離が分からないと言うのも自分が同じく核家族の一員として育ってきたからであり、つまりそれは親の親(子供から見れば祖父母)に起因するのではないかと思う。とは言えそれは高度経済成長期の社会の流れとして仕方が無かった面もあり、責める事はできないだろう。
今の小学生の親の代(20代後半〜40代前半)は、バブル全盛期を経験してきた世代であり、「自由」の名の下に様様な価値観を容認してきた世代である。バブル崩壊によって不景気になったとは言え、それ以降は女性の経済力も上がって一人で生活する事が苦で無くなり、未婚率も跳ね上がった。女性の社会進出は喜ぶべきことだが、結果多くの未婚者が増えた事は数十年後に新たな社会問題になるだろう。


以上のように、今の親の世代は二世代目の核家族であり、自らが多種多様な価値観を認める社会で育った為、自分の子供をどう教育していけば良いのかという事に明確な答えをもてないのではないかと思う。だからこそ自らが子供の教育を学校に丸投げしてしまうのではないか。
加えて「お客様は神様です」と言った言葉を誤解して拡大解釈した世代でもあるので、(それが適価かどうかはともかく)金を払っていれば十分なサービスを受けられることを当然だと思っているし、教育と言うサービスに躾も含まれていると思っているのではないか。であれば多少行き過ぎでも構わないから

 徳育の教科化を再三、提言している教育再生会議は、官邸主導による迅速な教育改革を目指す前首相の肝いりで発足した。また、「国を愛する態度」や「道徳心」の育成を求める改正教育基本法は、前内閣で成立した教育の根本法規である。

という事に力を入れて欲しいし、加えて核家族化を抑えるために相続税を廃止(若しくは平均年収の1000倍以上の資産についてのみ対象とするなど、極めて対象範囲を狭める)し、大きな家を持つ事に対するリスクを低減して欲しい。そうすることで大家族を形成する事ができれば、子供の生活環境も向上し(大家族である方が子供の虐待発生率は少なくなる)、収入源を増やせる為に生活コストの削減にも繋がり、多額の社会保障をする必要も無くなるのではないか。


大家族化に向けた相続税の低減は、即効を期待できる政策ではないだろうが、未来に与える影響はとても大きいと思う。「予算が足りないから税率を上げる」のではなく「予算が足りないから税率を下げる」と言う考え方が、今後の政治に必要な事だと私は思っている。