「『ゆとり』を始めて認識した」

タイトルはKFCのゴキブリ騒動について話しをしていた際に友人が言った言葉。
吉野家の件といい、最近は自分のやった事や発言がどれだけ周囲に影響を与えるか分からない奴らが多すぎる。そいつらは総じて10代後半から20代前半の連中なんだよな。そういった奴らを今までゆとりと一括りにする必要はないと思ってたけど、こんなに酷くて明確な差が有るなら、ゆとり世代って括って語って良いと思うのよ。」
とのこと。
確かにそう思う側面はある。例えば今回話題になっている氏の吉野家テラ牛丼騒動に対する見解が

おもしろすぎでしょ
バイトしてればそんなことやっちゃうよねー
ケン〇ッキーでゴキブリ揚げてたムービー撮ればよかった
吉野家でバイトしてるひと、つぎわテラカレー作って動画載せてみて(^ω^)

という事からも分かるように、彼らの中では自分らの行った行為がとても「面白い」行為なのだと認識しているようなのだ。この考え方は私や友人には到底理解できなかった。
もちろん吉野家の方は正確な年齢は分からないので、彼と同年代かどうかは分からないので一括りにすることは出来ないのかもしれない。が、友人はニコニコ動画に揚げられた動画を見る限り、内容から歳をとっていたとしても20代前半なのではないかと推測し、「ゆとり」と認識したようだ。


私はこの意見には一部反対する部分がある。
学力の低下が叫ばれているのは確かなようだ。
その原因は教育制度によって学習時間が減った所為だとし、義務教育の週休二日制導入以降の世代を現在の学生を「ゆとり世代」と評したい気持ちも分かる。しかしだからと言って今の若者の軽率な行動を「ゆとり世代」と批判するのは如何なものかと思うのだ。


確かにゆとり世代と呼ばれる方方の非常識さが強調される騒動が多いが、結局これは世代的な問題なのではなく、インターネットの普及によって、個人の行動が安易に発進できてしまっているからこそ起こっているに過ぎない、と私は思っている。
例えば私が高校生の頃だったら、インターネットは極僅かなユーザーしか利用していなかった。結果、一つの書き込みが世間を騒がすような騒動に発展するようなことは無かった。だからと言って当時、個人の情報は威信が皆無だったかと言えばそうではなく、私たちは雑誌やラジオにネタとして情報を投函し、編集者やDJを通してそのネタが採用されることで、個人の情報配信の代わりとしていた。
例えばラジオのネタ葉書とは基本的に聞き逃せばそれっきりで、テープに録音している奴が居てもそれを不特定多数の連中にばら撒く手段も無かったので、どんなにヤバイものであっても、結構スルーされるものが多かったと思われる。
イザとなれば「これは番組上で取り上げたフィクションですから」と言い逃れることもできるし、やはり話をすることを仕事としている方方なので、本当にヤバイネタに関しては「貴方のネタは危ないので採用できません」とされるものも有ったし、個人や企業を特定できないよう「一部名称を改変して読ませてもらいます」とされているものも有った。


例えば今回の件がラジオの葉書として投函されたものだとしたら、
「えー、ラジオネーム○○からの投稿。『とある飲食店のバイトで、揚げてはいけないものを揚げてしまいました』…って、何揚げちゃったのかナ!?」
のように改変されていたと思う。こういった場合、投稿した方も「あれ、自分の書いてる内容と違う」という事に気付き、自分の書いた内容が世間に対して公言してはいけないものなんだろうな、という事をおぼろげながら認識する切欠になっていた面もあるのではないか。
そもそもネタとして投稿する手間が面倒臭くて行わず、発進されることさえなかったかもしれない。そう言う面でも情報配信システムの変化によるものだと言えよう。


つまり、現在のゆとり世代と呼ばれてる世代と我我の世代との差は、それを配信する際のチェック機構の差でしかない、という事。
昔から馬鹿な奴は馬鹿なネタを堂堂と言っていた。しかしそいつらの発言が極少数の連中にしか伝わらなかっただけだ。もしそいつらが今の世の中で育っていたとしても、同じような騒動を引き起こしていただろう。反対に今回騒動を起こした方が私の学生時代に育っていたとしたら、こんなに叩かれることは無かったはずだ。


なので私は、ゆとり世代と呼ばれている方方が格段に物事の分別がつかないとは思わない。




ちなみにこの件に関して私が最初に思ったのは
食べたら即死するような問題じゃ無くてよかった。」
だった。比べるようなことではないのかもしれないが。