で、決め手とは?

コミュニケーションの決め手」について。


結論から言うと、主題に対する解答が読み取れなかった。読解力がなくて申し訳ない。
なのでこの項では彼女の起こした行動を自分なりに解釈し、自分なりの解答を提示する。

 私の実家は古いしきたりが残る土地だ。そこで私は幾度も慇懃に「ここからは男だけで」と、女子供として排除される目にあった。だが先日の法要は違った。「ここからは男だけで」と言われた瞬間、私は「じゃあ私は今日呼ばれて来たけど、帰ります」と席を立った。瞬時にその場の空気が険悪になった。


 「男だけで」と言った男性の妻がその空気に辟易し「ええかげん学習せい」と小声で夫を叱った。“伝統”とやらに触れる度に必ず遭遇する私と男たちの喧嘩にその男の妻が悲鳴をあげたのだ。


 そりゃ妻にしてみればまる1日がかりで来客向けに準備した料理を毎度の喧嘩で台無しにされることを思えば、和やかな歓談と会食を望むのも理解できる。予想外の加勢を得た私はこれまでになく勢いづき声を荒げ、ついでに声高に言ってみた。


「参加するのなら私だけじゃない。そっちの女性全員、参加すべきだ」


 すると、意外にも女たちがぞろぞろやってくるではないか。多勢に無勢で男たちも押し黙るしかなかった。「革命か」と思うほど私は驚いた。


 この“伝統”の改革は急にはやってこなかった。絶対譲らない私と、同じく、これまでのやり方を死守しようとする側との戦いは、その終わらなさへの疲弊によって改革せざるを得なくなった。私が格闘したのは実は“伝統”ではない。1つの発言によって気分を害する人間がいる、と声を上げたまでだ。

以前のエッセイにて

 「ここからは男だけ」と言われる社会に参加することが、私はばかばかしくなった。そういうことでご機嫌な男性たちと、ご満悦な女たちだけでそういう社会は続けていけばよろしい。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070822/132845/?P=3

と、親戚付きあいを嫌ってもう縁を切ったのかと思ったのだが、それでも付き合いを続けていくと決めた以上、「1つの発言によって気分を害する人間がいる」と分かっていながら他者の気分を害することを恐れずに自己主張を行う事を慎むべきではないだろうか。
発言を読む限り、筆者の喧嘩腰な態度に周囲が辟易しているようにしか思えない。無論状況説明は筆者視点であるので、親戚の方方の反応を正しく読み取る事はこちらには不可能だが。


自分が納得できない事に駄駄を捏ねて周囲を困らせ力ずくで制度を変更させようなどと言う行為は、子供と同じである。良い歳をした大人のすべき事ではないし、己が周囲からそのような目で見られているのではないかという事を自覚すべきである。
もちろん、自分が間違っていると思う風習について意見も言わず、ただ黙って従う必要は無い。目的が「現行の風習を改めてもらう」事に有るならば、もっと穏便な方法でそれを実現する事が何故考えられないのか、という事だ。
30に届かない若輩の私でさえ、ここ数年「己の我を通す為には低姿勢になる事も重要なのではないか」と思い、言葉を選んで発言をするよう心がけているというのに、私よりも遥かに経験豊富な筆者が未だ己の我を通す為にこの様な発言をするという事が、なんとも理解できない。
「旦那が居ないので、一家を代表するものとして女の私が参加してもよろしいでしょうかね」と穏便に切り出す事が何故できなかったのだろうか?

 認知症患者が暴れるのは、それが認知症の症状だからではない。私もまた、すぐ怒るのはそれが私の性分や性格だからではない。認知症患者も私も、そこにあるディスコミュニケーションに対して、その相手に怒っているのだ。その感情は病気であるか否かといった枠を超えて、我々も既に体験しているおなじみの”苛立ち”だ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071010/137247/?P=3

何について怒っても構わないが、直ぐに怒るのは本人の性分であり性格である。
ディスコミュニケーションに対して真摯に向き合い、相手を理解しようと努力する介護師やカウンセラーの立場のように振舞う事を何故しないのだろうか。
ディスコミュニケーションの原因を相手に押し付け、「こちらは相手を十分に理解してるから、相手が自分を理解しなければならないのだ」と自分の言い分のみを主張するような姿勢は、単に相手を見下しているという事ではないか。


理不尽な内容を話していると感じても、先ずは相手を理解する事が大事であり、次いで自分を理解してもらう事が大切なのではないか。理解されない事を相手の能力不足であると嘆き、他の場所で自分の正当性を主張したところで、周囲の反応が「仕事できない奴がまた言い訳してら」となるのが会社員である。
例えば車を買いたい人が居る場合、用途も聞かずにGTRやNSXを売ろうとしたところで売れるはずが無い。日常の足に使いたいなら軽自動車、子供が小学生くらいで子供の友人も連れて遊びに行く事が多いならワンボックス、育児の手が掛からなくなってきて夫婦でちょっと旅行を楽しみたいならセダン…つまり、相手を理解した上で、こちらの主張(=売りたい車の提案)をする必要が有るという事。
日常におけるコミュニケーションも同じであり、自分の話を聞いて欲しいのであれば、先ずは相手の話を聞くことだ。


以上のことから私の出した結論は、コミュニケーションの基本は相互理解である、という事。
そしてその為の決め手は、こちらを理解してもらう前に、先ず相手を理解するという事である。