水戸黄門に見る日本人の社会観

うちの親がよく水戸黄門を見ている。残念ながら私には良さが全く分からず、夕飯時の食卓で流れていつつも家族の話題として取り上げられることは無い。
とは言え、見ていて「つまらない」と不満を持つだけでは時間の無駄なので、自分なりにどういう作品なのかと言うことを考えながら見ている。「水戸黄門は勧善懲悪の物語だと言うが本当にそうなのか」とか、パターンを解析すれば自分なりのオリジナルストーリーでも作れるんじゃないかとか、そう言う事に主眼を置いている。


そうやって見ていて思ったのは、水戸黄門と言うのは「日本人の社会観」を良く表している作品だと言うことだった。


悪代官の手下連中は、ご老公が身分を明かして「この者どもをひっとらえろ!」と言うと、素直に命令に従って代官達を連れ去ってしまう。この中の誰もが「貴方が行くらお偉い方であっても、直接私達を命令できる権限は無いでしょう?」と言う疑問を抱いて反抗したりはしない。
また彼らは代官の命令で行動を起こしていたのだから、自分達に責任は無いと考えているようだ。彼らもその代官の下で働いていたことでオイシイ思いをしてきた筈なのだが、より強い権力者たるご老公に従い、それまでの代官からの恩をあだで返す。そして自分達がご老公に狼藉を働いたことを咎められる事も無いまま終わる。


「間違ったことだと思ったが、上からの指示だったので」と担当者が平気で悪事や悪習を続けて行く事が水戸黄門と言う作品の中では肯定されている。船場吉兆のような例に代表される企業の不祥事に於いても、「上がやれといったので」と言う事を理由に、問題がある行為をやめることは無かった。

 高級料亭「船場吉兆」(大阪市民事再生手続き中)が福岡市の博多店に続いて、岩田屋(福岡市)にあった旧天神店(現在は閉店)でも刺し身のつまなどの食べ残し料理を使い回ししていたことが分かった。両店は使い回しを指示していたとされる湯木正徳前社長(74)が来店していない日も、パート従業員が料理人に判断を仰ぎ、日常的に使い回ししており、両店での料理の使い回しが「制度化」されていたことになる。


 食品表示偽装が発覚し、信用を失墜した船場吉兆は、経営幹部だけでなく、企業全体のモラルの抜本的改善が求められそうだ。


 博多店の河合元子店長と前村政紀料理長は7日夜の会見当初、前社長が来店した際、「(食べ残しを)使いなさい」と指示を受けたときに使い回しをしていたと説明。前社長は昨年、2カ月に1、2度、来店していたという。しかし、会見が進むにつれ「(前社長が来店していない日でも使ったことが)あるかもしれない」と、日常的だったことを認めた。


 河合店長らによると、食器を洗う担当のパート従業員が常に、手が付いていないように見える料理を料理人に持って行き、使い回すかどうか判断を仰いでいた。


 使い回しを認めない料理人もいたが、「前社長は雲の上の存在」(前村料理長)で、指示は「絶対的」との認識があったのに加え、「忙しい」などとして調理時間短縮のため、現場の判断で続けられた。昨年10月、地場百貨店の岩田屋地下で食品表示の偽装発覚後も改善されなかった。

船場吉兆 使い回しは日常的 前社長不在時も 料理人が判断

この会社が槍玉に挙がっているが、同じようなことは他社でも良くニュースになっているし、表沙汰になっていないものも多分にあると思う。罪の重さは多多あろうが、多くの企業でこのような「おおっぴらに言えない行為」をしていると推測しているし、担当者にとっては自らの違法行為を「当然の事」として受け止めていると思う。
そう言った方も他社/他人の違法行為は目に付くだろう。何故なら彼らにとってはソレは違法行為と言う意味では同じなのだが、自分にとっての「当然の事」ではないからだ。傍から見ていればどちらも変わらないのだが…


水戸黄門の「この者達を切り捨てい!」と言うシーンで「それは無理でございます!」と配下の者が諌めるような物語になったなら、社会の姿は大きく変わっていると言えるだろう。が、そんな水戸黄門が見られる日が来るかどうかは分からない。