Wikipediaの信憑性

時時、「Wikipediaの記事には信憑性が無い」と言う意見を目にすることがあるが、ネットに限らず、「全ての情報ソースが須らく信憑性が無いものだ」と言う基本的な事を忘れてはいけない。例えば新聞の信憑性、TV番組の信憑性は、果たして信頼できるものなのだろうか?
ウェブ系メディアへの利用意向高まる」と言う記事から引用。

 調査によると、前回調査と比較し、「新聞」、「テレビ」、「雑誌」、「ラジオ」は利用度、信用度ともに低下している。一方、「検索エンジン」は前回の利用度を維持、「ポータルサイト」は利用度が大きく低下したものの今後の利用意向は高く、さらに今回から調査対象に加えた「動画教諭サービス(You Tubeなど)」は利用度、利用意向ともに高い結果となるなど、ウェブ系メディアの利用度や利用意向は高いことが分かった。


(略)


 またCGMを対象に、シーン、目的別に利用したいメディアを調査したところ、自分の情報を他人に提供したいときでは「個人のブログ(26.4%)」や「mixiGREEなどのSNS(18.0%)」の利用意向が高く、他人から情報を得たいときは「ウィキペディアなどのQ&Aサイト(44.1%)」や「価格/商品比較、宿泊予約サイトなど特的カテゴリの掲示板(39.3%)」の利用意向が高い。目的を持たず、何か面白い情報を探したいときは「You Tubeニコニコ動画などの動画共有サービス(37.9%)」の利用意向が高いなど目的によってウェブメディアを使い分けていることが分かった。

ネットユーザーの間では、新聞やテレビといった情報媒体の信憑性は下がっているようだ。これは私も先日触れたが、新聞社が記事によって恣意的な世論誘導をしているように感じるからではないか。

どちらの記事も事実を羅列しているに過ぎないが、幾つか情報が足りないだけで、事件から受ける印象は全く異なってしまう。足りていない情報が取材不足であれば仕方が無いが、これが意図的に隠されたものであった場合はとても厄介だ。

他人によって作成/編集された情報には、必ず編集者の意見が反映されてしまう。これは仕方が無いことではあるが、報道と言うものに於いては、そういったものを極力排除して一次ソースに近いものを提供することが重要なのではないだろうか。例えば「生徒「起立の強制よくない」/県立高校卒業式」の記事を引用。

 県立高校の卒業式が一日から始まった。式典で県教育委員会君が代斉唱時の教職員の起立の徹底を求め、不起立者の氏名を報告するよう各校長に命じている。「起立の強制はよくない」「異なる考え方をなぜ認めないのか」。出席した生徒たちは、君が代問題への関心の有無を問わず、個人の自主性に任せ、多様な価値観の尊重を求める意見が相次いだ。


 この日、県立高六十校が卒業式を行った。ある県立高では、「国歌斉唱」の司会者の合図で参加者が一斉に起立した。一人の教諭はじっと席に座ったまま。君が代のメロディーが流れる中、同教諭は静かに時が過ぎるのを待っていた。


 この教諭は、起立しないことを事前に担任するクラスの生徒に伝えなかった。「価値観を押しつけたくない。自分で考えて判断してほしい」からだった。「教育現場に強制はなじまない。アジアの戦争被害者に思いをはせると、とても立てない」と打ち明けた。


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 一日、同校を卒業したある女子は「強制はよくないと思う。同じクラスの男子で立たなかった人もいた」と級友の心を推し量った。グループで帰路に就いた卒業生グループも異口同音に「個人の自由」と言い切った。


 湘南地域の県立高でも、立たなかった教諭がいた。卒業する娘の晴れ舞台に臨んだ父親は「今の子は国旗、国歌をあまり意識しないのでは。うちの娘も…」と話すが、当の女子は自分なりに受け止めた。「大勢の中で一人だけ座ったり、国歌を歌わなかったりするのは勇気が要る。もっと自由が認められていい」


 横浜市内の県立高の卒業生の男子は、県教委の手法に手厳しい。「どうして違う考え方の人を認めないのか。不起立者の名前を集めるなんて、子供っぽい」。「強制」が生徒の気持ちにも影響を与えることを心配する。「心の中で立ちたくないと思う先生が強制されて立ったら、それを見ている生徒は、上の人の言うことをおかしいと思っても従うしかないのかと受け止めてしまう」

既にエッセイのレベルなのだが、こういう物が堂堂とニュースを名乗って乗っているのだから、情報ソースとして信じろと言うのは不可能であろう。掲揚賛成派がどう思っているかということは乗せず、反対派の立場からのみかかれたこの記事を見て「やはり日の丸・君が代は卒業式に相応しくない」とでも思わせたいのだろうか。
とは言え、新聞社が運営しているからといってwebサイトと新聞紙を同格に扱うことはできない。この方の意見を引用する。

もう一つ驚いたことというのは、その信憑性に関連する話だ。最近、まだ発表されていないセキュリティ関連の論文と言うか解説記事というか、そんな物を読む機会があった。その内容についてはともかくとして、驚いたのは、参考文献として、 Wikipedia上の記事がいくつも列挙されていたことだ。確かにこの文書の筆者はこれらの記事を参考にしたのだろう。そのことをとやかく言うつもりは全くない。しかし、 Wikipedia上の記事を参考文献として挙げるのは、明らかにやるべきことではないだろう。なぜなら、 Wikipedia上の記事は常に変更される可能性があり、したがって、参照されている記事が、今も論文執筆時と同じ内容である保証はどこにもない。また、極論を言えば、論文の筆者が自分の論文にとって都合がいいように Wikipediaの記事を編集することもできる。そして、こういう点も含めて、内容に対する信憑性が保証されていないわけだから、 Wikipedia上の記事を根拠にした論理展開というのは、根拠がない議論だと言われても仕方がないだろう。そして今回の場合、論文が扱っている内容がセキュリティ関連ということだったので、なんともお寒い話である。

この「Wikipedia」と言う部分を「オンライン新聞」と置き換えてみても、全く同じことが問題になる。実際、同じ記事でも参照される時間によって内容が変わることは良くある。特に加害者の名前等は最初日本名で表示されていながら、加害者が在日の方だったりすると途端に名前が伏せられる傾向にあるのは、あまり気持ちの良いものではない。


では印刷された新聞や書籍、放映されたTV番組に信憑性があるかといえば、これもまた微妙。確かに改変が容易に行われることは無いが、夫夫の信憑性が千差万別。誤報もあれば捏造もあり、須らく「Wikipedia以上の信頼性がある」と言えるものではない。例えば○日新聞やその系列のテレビ局における反日系記事の誇張・捏造は、あまりにも酷い時がある。
そういう記事を情報ソースとして使うことにどれだけの信憑性があるのだろうか。


論文も同じだ。データの捏造が発覚した論文もあれば、古くて参考にならないような論文もある。そういった多くの論文を基に作った文章の説得力というものはどれだけのものなのだろうか。確かに引用されている論文を読むことでその文章の信憑性を逐一確認できるのは良いことかもしれないが、引用されている論文が多ければ多いほどその信憑性の確認には膨大な時間を費やすことになる為、全ての引用元を確認することは殆ど無い。
また以前読んだこのような本のように、多くの論文を引用しているが、論文の信憑性について「欧米の結果なので、日本では違うかも」とされては、論拠が無いといっているに等しい。結局は情報ソースが確りしていれば文章の内容が確りしていると言うわけでは無い典型であろう。
とは言え、論文は本人確認をすることが可能と言う意味でネットや新聞、TVに比べたら格段に信憑性は高いものだと考えてはいる。


世の中には、人が一生かかっても処理しきれない多くの情報があふれ返っている。だからこそ、それらをブラッシュアップした物が重要になってくる。しかしブラッシュアップされた物は必ず作成者の意図が反映されてしまい、特定の意味を持ってしまうことになる。
しかしその情報を多くの人が触れることによって普遍化され、特定の編集者の意図が極力反映されなくなってくる。そういう意味でWikipediaはそれなりの情報ソースとして読むことができる。「全ての情報はそれなりの信憑性しかない」と分かっているのであれば、Wikipediaの情報をソースとして使うことにも十分な意味があるのではないか。
なのでこのサイトでは引用に便利で、引用元を各自が参照しやすいWikipediaや、オンライン新聞を参照することが多い。そしてそれらの内容が常に変わる可能性であることを前提としているので、単にリンクを張るだけではなく、blockquoteを使って当サイト内に引用部分が残るようにしている。
これが当サイトの情報の信頼性確保に対して私ができる最大限の努力である。より良い方法を知っている方が居たら教えて欲しい。



話は少しずれるが、先ほどの記事の中における「個人の自由」や「強制」に関して。
学校教育とはそもそも基本的に「個人の自由」を認めない場所である。登校に際して制服の着用義務がある学校に自由を盾にして私服で登校することは許されないし、染髪を禁止している学校で金髪にして登校することも許されないだろうし、バイク通学や車通学が許される訳でもない。つまり、学校と言う集団に所属して生活する場合、多くの自由は規制されているのだ。
これは学校に限らず多くの会社でもそうだろうし、そもそも国で生活をするということ自体、多くの自由が規制されていると言える。つまり集団生活をする上において個人の自由などというものは、認められている一部の自由を除き、大部分に大きな規制が設けられるのが普通なのである。思想の自由があるからといって、人を殺してよい自由は無く、他人からモノを奪う自由も無い。「うちの宗教は人を食う儀礼があるので」と主張したところで、食って良い訳が無い。
そして国民として生きるには義務と言う名の強制を強いられ、会社員として働くためには職務と言う名の強制を強いられる。学生であれば「進級に必要だ」と授業やテストへの参加等の強制が行われている。何も卒業式における日の丸・君が代に限ったことではない。
もし生徒らの発言が本当に記事通りの内容だとしたら、この学校は何を生徒に教育してきたのか疑問だ。