自己責任を認めない社会がもたらす弊害

ちょっとした娯楽を楽しめなくなったという意味では、「<豆まき>中止 来場者殺到で警備限界 横浜・弘明寺」と言う記事も考えさせられるものがある。

 横浜市内では最古の名刹(めいさつ)「弘明寺(ぐみょうじ)」(南区)で60年以上続けられてきた節分の日(2月3日)の豆まきが今年から中止される。狭い境内で警備員の指示に従わない来場者がおり、転倒事故などの危険があるからだ。継続を望む声が上がる中、美松寛昭(みまつかんしょう)住職(44)は「自分のことしか考えない人が多く、警備の限界を超えている。子供たちに伝統行事を残せないのは悲しい」と話している。


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 豆まきには、約600平方メートルの境内に、毎年約1000人が集まり、狭い境内で多くの人が福豆やお菓子を我先にと奪い合う。実際に転んで軽いけがをする来場者もおり、05年から福豆を手渡しにした。それでも危険な状態が続き、07年10月に行われた寺の役員会で中止を決めた。来年以降も再開する予定はないという。


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 参道にあたる横浜弘明寺商店街への影響も心配される。商店街協同組合の魚住宏一副理事長(60)は「新規のお客さんを開拓する機会だったのに。影響が予想できない。商店街で配る福豆の量を例年の3倍にして、何とか節分の日が盛り上がれば」と話している。

 美松住職は「何かあれば主催者側の責任が問われる時代になった。事故が起きてからでは遅い」と説明している。

起こった問題については主催者側の責任が問われる世情では、主催者側の支持に従わない来客者がいるという事は物凄いリスクになるのだろう。中止を決断した住職さんも苦渋の選択だったとは思うが、致し方ないことだとも思う。
他人の責任を追及する姿勢が悪いとは言わないが、自分が悪いという事を素直に認めるだけの寛容さの方が重要ではないだろうか。年年平均給与が下がり続けているのに物価は徐徐に高騰しており、生活が苦しなって余裕が持ちにくい現状ではあるが、私は人間性までも貧しくなりたくはない。まあ「衣食足りて礼節を知る」とも言うし、私の言っている事は理想論でしかないのだろうけれど。
しかし人は未熟で万能ではなく、そういった人達が寄り添ってできている社会も同様に万能ではない。生きているという事自体が常に死のリスクと隣り合わせにあることであり、「何の問題も無く生きられるのが当たり前」なのではなく「何の問題も無く生きられる事は幸せ」なのだという事に気付くべきではないだろうか。