笑いは差別なのだろうか

特集ワイド:ビートたけしさんに聞く「足立区ギャグ」 落差に面白さの種」について。
まあ日本でトップクラスの芸人と認識されているビートたけし氏が言っていることのほうが正しいとは思うけれど、自分なりの感想。

 「うーん、笑いは差別だって思っているところがあるからね。差別的な意見で人が笑うところ、あると思う。それがないと、かなりの笑いがなくなるんじゃないかと思う」


 それにしても、どうして差別が笑いになるのだろう。


 「基本的には、なぜ面白いかというと……。逆に言えば、ホームレスがバナナで滑って倒れるより、総理大臣が滑った方がおかしいでしょ。偉くなって、(カンヌ国際映画祭のような)世界の舞台に呼ばれ、自分を上げておいて、改めてちょんまげをかぶるとか。アカデミー賞に呼ばれて、お尻が出ていたりとか。だから、野球選手に一生に一度、サードから回ってみろって言ってるの。長嶋(茂雄)さんも何回わざとエラーしたことか」


 差別も含め、落差に面白さの種がある、ということだ。

これを差別と言うのであれば笑いは差別なのかもしれないが、これは別に差別ではないだろう。そもそも差別って何だ?という話にもなってくるわけだが、goo辞書によれば

(名)スル
(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
いづれを択ぶとも、さしたる―なし/十和田湖(桂月)」
(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。
「人種―」「―待遇」
(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。

とあり、一般的に「人種差別」や「女性差別」を語る際に使われる意味としては、(2)の意味であろう。不利益が有るからこそ是正を求める運動が起きるのだし。であれば、「ホームレスがバナナで滑る」という事と「総理大臣がバナナで滑る」という事のどちらにも、差別と言うものは存在していないだろう。
ただ私は、大衆芸能における笑いとは基本的に落差を題材にしたものだ、と言う点については同意である。「誰か」の「馬鹿げた行為」を笑うと言うのは、例えば昔話にもあるように、古来から普遍なのかもしれないと思う。私は笑いとは一種の満足感や優越感と言ったものの表れだと思っているので、例えば「好きな人と一緒にいる時」や「勝負に勝って嬉しい時」と言った場合に笑うのはその所為だと思う。また、過去の自分の行為を自虐ネタとして笑えるのも「今の自分は昔の自分よりも上」と言う認識があるからではないか。
少なくとも私はそう思っているので、「笑いとは落差である」と言う点には同意する。


しかし、その「落差」を何処に持ってくるかで笑いの質は大きく変わると思う。例えば明石家さんま氏の笑いの取り方と島田紳助氏の笑いの取り方は全く違う。
さんま氏は弄る相手を持ち上げつつも叩き落したり、あえて隙のある突込みをする事で相手からの反撃で自分を貶めたりと、相方と同列の掛け合いが基本。逆に紳助氏は、相手をこき下ろして馬鹿にすることで笑いを取るのが基本。
両者の違いは漫談(さんま氏)を基礎とするか漫才(紳助氏)を基礎とするかの違いなのかもしれない。例えばダウンタウンやナイナイ、ロンブーといった漫才出身のタレントが司会になると決まってゲスト弄りがメインになる事からも、漫才出身者は自分が突っ込みの位置に立ってゲストをボケとして扱うと言う考察はあながち的外れではないと思うし、反対に大橋巨泉タモリのような漫才出身者以外の司会者はゲストとの掛け合いを基本にしていると言う考察もそれほどずれているとは思わない。
さんま氏のような笑いの取り方は司会者の力量がとても問われる為、あまり数を見ない。反対に紳助氏のような笑いの取り方は司会が毒舌であればとりあえず成立するので、別段芸も無い有象無象のゲストを並べて細木数子女史やみのもんた氏ら司会をするような番組が作られてきたのではないかと推測する。


私はそういった紳助氏側の笑いの取り方は、あまり好きではない。基本姿勢が「相手を見下す」と言う所に立脚しているからだ。つまりそれは「他人をあざ笑う」事であって、笑いの中でも特に醜悪な部類に入る笑いだと思うからだ。こういう笑いが有ってもそれはそれで良いのだが、それが主流となってしまうのは問題ではないか。
「他人のことを思いやれない人が増えた」等と嘆かれる社会モラルになったのは、実はTVで放映されるお笑いの質の変化がとても大きいのではないかと思うのだが、皆さんはどう思うだろうか。