「責任を取る」と言う言葉の無責任化

犬と散歩、放し飼い横行 下京・梅小路公園 注意喚起」について。

 街なかの憩いの場として親しまれている京都市下京区梅小路公園で、飼い主が犬をひもでつながずに散歩させる行為が横行している。放たれた犬に野良猫がかみ殺されるという痛ましい例も起きている。犬の放し飼いは京都府条例で禁止されており、公園を管理・運営する市都市緑化協会(下京区)は「遊ぶ子どもにとっても危険です」と園内に張り紙をして注意を呼び掛けている。


 「条例で禁止されているとは知らなかった。でもうちの犬は10歳の老犬。猫すら怖がるから問題ない」。昼間に小型犬のミニチュアダックスフントを放して散歩させていた男性(59)は悪びれた様子もなく話した。


 総面積12万平方メートル。市内の公園では有数の広さのある梅小路公園は散歩に適しているといい、男性は伏見区から車で訪れた。昼間はまだひもでつないで散歩する飼い主も多いが、夕方から夜にかけて放して散歩する人が増えるという。

まあ、紐でつながれてない犬が引き起こしたあらゆる問題について一切の責任が負えるのであれば問題はないが、可能性の問題ではあるが、放し飼いされている犬にじゃれ付かれた人が実はアレルギー持ちで、重度のアレルギー症状を引き起こしてしまう事も有るだろう。最悪の場合は死に繋がる。
「アレルギー持ちは公園を散歩するな」と言うのは現実的ではないし、飼い主がきちんと管理していれば被害を防げる問題なのだがから、犬を放し飼いにする事で引き起こされる問題をもう少し考慮して欲しいものだ。


それに最近は公園内で起きた不慮の事故について市の責任を問うような判決も下されている。公園の遊具に始まり、立ち木の管理や噴水での騒ぎ声まで、市の管理責任が問われているのだ。犬の放し飼いで万が一の問題が発生した場合、被害者は犬の飼い主ではなく市を訴える可能性も否定できない。何故なら、犬の飼い主よりも市の方が高額の賠償金をもらえる可能性が高いからだ。
市都市緑化協会が必死になる気持ちも分かる。


「イザとなったら責任を取る」と言う人は居るけれど、人に危害を加えた際の責任は取ろうと思っても取れるものではない。最終的には賠償金額の問題になるのだろうけれど、例えば人の顔に傷をつけた場合、その傷跡が多くの不利益をもたらす要因である事は間違いないが、被害額は正確に算出できるものではない。また例えば、事故や犯罪に巻き込まれた際の精神的な負担は、精神科への通院の有無に限らず、囲碁の人生に大きな問題をもたらす可能性は否定できないにも関わらず、被害額を算定をすることはできないものだ。
それに自分が思っている責任の取り方と、相手が望んでいる責任の取り方とには大きな差が有る場合も多いだろう。飲酒運転で他人の子供を引いてしまった加害者は「刑務所に入って遺族に謝ること」が自分の責任の取り方だと思っているかもしれないが、子供を失う事になった被害者がそれで満足するだろうか。「死んだ子をよみがえらせてくれ」と、不可能な要求を求めないとやりきれない事もあるだろうし、「人を殺したんだから自らの命を絶つべきだ」と願う方も居るだろう。
要するに、本当の責任を取れるような人は皆無なのだ、という事。


とは言え、世の中で起こること全てが偶然であり、人生に於いて何の苦痛も苦難も無く生きていける等という事はない。生きているという事は少なからず命の危険が付きまとうものであり、自分のみに降り注いだ不幸の全てについて誰かの責任を問う事はできない。
そう言う意味に於いては、公園内で起きた諸事故に於いて管理責任を問うような事は行き過ぎであると私は思う。親が子に過保護なのは仕方がないが、国が国民に過保護である必要はない。偶然にまで責任を問うのは、流石に行き過ぎだ。
それに国や自治体が支払う賠償金の全ては税金なのであって、誰も彼もが国や自治体に無限の責任を求めるようでは財政が破綻してしまう。


自分のやった事にすら責任が取れないのが人間だ。
それを自覚し、できるだけ他人に迷惑をかけないよう心がける事が気配りではないか。そういった気配りができる人が減り、己の都合ばかりを考える人が増えてしまえば、結局「誰も彼もが自由に生きていたら、とても住み辛い社会になった」という事にもなりかねない。若者の接客業離れも、実のところ自らの行動を鑑みた結果、「こういう客は相手にしたくない」と思っていることの現われではないかと思う。


「自らにできる最善のことをした上で、それでも尚起きた問題に関しては、できる限りの責任を取る」と言うのが「責任を取る」と言う言葉に秘めるべき決意であり、決して「好き勝手にした結果、問題があったらできるだけ責任を取る」という安易な気持ちから発してよい言葉ではない。