国民の知る権利を保障すべきは、政府ではなく報道側

ネットで変わる情報空間」について。

まず、既成マスコミのあり方に対する強烈な反感と不信感だ。新聞やテレビは、情報を加工し、紙面や番組枠に収まるようコンパクトにまとめて発信する。記者として当たり前のように繰り返してきたこの作業は、多くの情報の受け手に、マスコミによる日常的な情報操作だと受け取られていた。


 昨年8月10日、「小泉首相靖国関連ぶらさがり全文」という記事をブログに投稿した。政治部記者にとっては、日常の取材メモで簡単に読める首相と記者団のやりとりをそのまま載せたに過ぎなかったのに、これが大きな反響を呼んだ。この日のコメント欄には次のような書き込みが寄せられた。


 「マスコミは正確で豊富な情報提供をしない」「物を考える際に情報のオリジナルソースがどれほど大切か」「私たちは、たくさん語られた中からマスコミの都合のいい形にまとめられたものをずっと聞かされ読まされてきた」…。


 中には、記者に対し感謝を表すコメントまであった。間違いなく、読者は加工されていない一次情報を欲しているのだ。現在、MSN産経ニュースは官房長官の記者会見全文や裁判傍聴記の詳報を流しているが、これには記者ブログでの経験が生かされている。

情報加工の過程に於いて「アサヒる」に代表されるよう、報道側の解釈に基づく意図的な情報加工がなされている。とは言え、一つの事実も見方によって様様な意味を持つものであり、また分かりやすくする為に他の事実との因果関係などを付加させる事も重要なので、加工の際に特定の意図が反映されてしまうのは仕方が無いとも言える。
しかし、だからこそ無加工の情報が必要なのだ。
ネットは、テレビや新聞など情報量が有限のメディアではなく、情報量が無限に等しいメディアである。その為情報を無加工のまま載せる事ができる。既存メディアはネットと対立するのではなく、ネットとの共存を図るべきであり、例えば新聞に「元データなどはサイト参照」とURLなり2次元バーコードなりを張っておけば、より詳しい情報を知りたいと言う国民の知る権利を守る事になる。
現状、報道側は「報道の権利」だとか「国民の知る権利を」とかを盾にとって取材を敢行する割には、報道時にそう言う事に配慮されているとは感じられない。「アサヒる」と言う造語が定着しないよう、各報道機関にはできるだけ真摯な態度で報道に臨んで欲しい。


とは言え、世の中には情報が溢れすぎている為、全ての情報を垂れ流せば良い訳ではない。情報は整理(=加工)しなければゴミ同然である。であるから、先述したように加工の必要性は非常に高い。が、その加工過程が酷い為、情報として魅力がなくなっている。「ネットの所為で新聞が売れない」とか「ネットの所為で視聴率が低下した」等という事もなくなるだろう。結局既存メディアから国民が離れていく理由はそこにある。
確りと要約された情報は、古今東西変わらぬ価値がある。ネットでもまとめサイトに人気があるのはその為だろう。