常識の大切さ

《法廷から》窃盗という罪の重さ−「分かりません」」について。
長いので、やり取り部分だけを引用。見やすくなるよう多少発言以外の部分は改変した。

弁護人「物を盗むことは悪いことだと分かりますか?」
被告人「いいえ、分かりません」
弁護人「接見では盗みは悪いことだと言っていたのに…」
被告人「そのように(前は)言いましたが、罰金なら払うし、今回のように何カ月も拘置されると頭にくる」
被告人(再犯の可能性は)「同じものを持っているので、もうしません」
検察官「窃盗は、懲役10年に科されることもある重い罪。分かってますか」
被告人「いいえ。人を殺したわけではないので、そんなことを言われても何も思いません。弁護士を雇うので、問題ありません」
検察官「再犯しないというあなたの供述は信じられない」
被告人「信じてもらえないなら私はロシアに行きます。あちらにはたくさん友人がいるので」
被告人(店への謝罪の気持ちがあることは認めた上で)「私の感覚では、汚い店なのであまり好きではありません」
裁判長「悪いことだとわかりますね」
被告人「ゴメンナサイ」


即日、懲役10月、執行猶予3年(求刑懲役10月)の判決が言い渡された。


 裁判長は、「外国人であるあなたには、弁護費用と通訳費用を負担させないことにします。国の方で負担します」と述べ、公判を締めくくった。日本司法支援センター(東京都千代田区)によると、弁護と通訳には、合わせて約8万円の費用がかかるという。

被告人が外国人だから、と言うつもりは無い。日本人であっても罪の意識の無く犯罪を犯す人も居るだろう。
例えば万引きが窃盗罪であり、懲役10年以下の刑に科せられるような罪であると言うことを認識していない人は多いだろう。


私は、多種多様な生き方を否定するつもりは無いが、最低限の社会のルールについて共通認識を持っている人同士で生活したいと思っている。人を殺さない、人の物を盗まないというルール関することから、お年寄りには席を譲る、ゴミのポイ捨てはしないというマナーに関すること、そう言った事を普通に行える方方と生活をしていく事が望みだ。
麻生氏の演説

みんな当たり前の事だと思っているかもしれないが、俺の友達で、アメリカの金持ちの奴のせがれが日本で働いていたが。その父親が、最近の近況が聞きたいと言ってきたので、日本の一番印象を受けたもの言ってみろと言ったら、「地下鉄」と言った。(俺は)ああNYに比べたら東京の地下鉄は絶対きれいだからなと思ったら。六本木で終電に近い地下鉄に乗ったら、酔っ払って寝ているのが何人もいてこれが噂に聞く「カローシ」だと思った。とのことだった。俺は最初、コイツはバカかと思ったが、それがその人の(最初の)印象だったそうだ。しかし、同じような事を何度も見るにつれて、日本が終電で居眠りしても犯罪に巻き込まれてポンコツにならない治安のいい国だとわかって、強烈に驚いた。とのことだ。
(日本では)誰も驚かないだろうが、しかし世界から見れば、これが日本の持っているブランドだ。
タクシーに忘れ物としたら届いた。NYでは考えられないという人もいる。我々は当たり前だと思っていても、世界の水準からすれば圧倒的にすごい。それが日本の持っている力だ。私はその事が言いたい。私はこの事をもっと誇れる国にしたい。

の部分は、正しくその通りだと思う。
水も空気も有るのが当たり前と日日余り有り難味を感じることは無いだろうが、公害等でそれらを普通に手に入れることができなくなった歴史が日本には有る。また、地震や台風などの災害によって、さっきまで普通にあったものが突如としてなくなる場合も有る。事故等によって突如日常を奪われる事も有るだろう。
失ったそれらのものは、時間を掛ければ元に戻るものもあれば、とても長い年月を掛けなければ元に戻らないもの、絶対に戻らないものもある。そうやって、失って初めて日常の重要さに気付き、「あの時こうしていれば」と事前策を怠っていた事を嘆くことになる。
社会秩序も同じで、失って初めて気付くのは遅いのだ。今普通にそこに有るものの大切さを考え、それを大切にする努力を怠ってはいけない。


世界標準を掲げて様様な政策を施すのも良いだろうし、多くの外国人を受け入れるのもいいだろう。しかしそうした結果、日本らしさを無くしてしまっては意味が無い。「日本で生活をする上で守るべき事」と言うものを国内外にアピールしていく事が重要だろう。
例えば「イスラム教の国では豚肉を食わない」と言うように、「日本では察しと思いやりが大切」と文化に根付いた常識として各国の方が考えて行動してくれるようになるのが一番望ましいと考えている。


その為にも国には道徳教育の徹底を求めたいところでは有るが、先日中教審の方針で「道徳」教科化見送りとされたのが残念では有る。

 しかし、日本人の規範意識の低下が指摘され、「学校現場で道徳観や倫理観をもっと教える必要がある」といった声が高まったことを受け、教育再生会議が第2次報告で、「道徳」を「徳育」として教科にするよう提言。多様な教科書を使うことも提案した。


 一方、正式な教科にするには、〈1〉児童・生徒を数値で評価する〈2〉検定教科書を使用する〈3〉中学校以上は各教科専門の教員免許を設ける――ことが条件。このうち、数値評価や「道徳」専門の教員免許については、当初から「道徳教育になじまない」などの異論が根強かった。また、中教審内でも「心の中の問題を扱う教科書を検定することには無理がある」などの慎重な意見もあった。


 このため、中教審では、改定する指導要領では「道徳教育の充実」を掲げながらも、「道徳」を教科に格上げしない方針を固めた。この方針は、文科省が改定する学習指導要領に反映される予定だ。

私としては道徳とは心の問題ではなく社会通念を教えることだと思っている。
また道徳ではないが、国語の教科書に用いられる文章も子供の教育にふさわしいものが選ばれ、テストでも「筆者はどう思ったのか」と言う設問が有って「どう思ったと受け取るのが正しいのか」と言う答えが有る以上、これも心の問題と言えなくも無いだろう。道徳だけ「心の問題だから」と別格扱いするのは些か理由が分からない。
では心とは何か、と言う話になるとまた長くなるので後日別項。