理解できないならしなくて良いこともある

“アキバ”についていきたかった私」について。

「彼女が欲しいとか、思ったりしないの?」
「特に思わないッスね」
「でも、彼女がいたら楽しいと思うけどな」
「そうかな。面倒くさいだけじゃないんですか」


 そうかな。今度は私が心のなかで呟く番だ。


「休みの日とかは何やってるの?」
「特に何も……、アキバに来るか、家でエロゲーやってますね」


「ところで、どうしてもひとつ教えてほしいことがあるんだけど、アキバって、どこが面白いの?」
「どこがって……、面白いじゃないですか」
「だから、その“どこが”を教えてほしいんだ」
「だって、欲しいものはたいがい手に入るし、こういう店もあるじゃないですか」
「欲しいものって、さっきのエロゲーとかDVDのことかい」
「まぁ、そうですね」
メイド喫茶店とかこういうイベント、楽しい?」
「さっき応えましたけど」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070904/133952/?P=2

多分、この筆者の「彼女がいると楽しい」という事が彼に伝えられないのであれば、彼の「アキバが楽しい」という事を筆者が理解できなくて当然だ。
この筆者、理解しようという態度でありながらやはり上から目線で見下している、つまり「教えを請う」態度ではなく「観察する」態度なのである。
そりゃインタビューを受けている立場からしたら気分が悪くなるのも仕方が無かろう。
アキバ関係の報道に関するインタビュアーという人種はこのような人が多い気がする。

 理由はふたつある。ひとつは、何年か前に秋葉原の街の変貌をルポ形式で記事にしたことだ。私の認識では、秋葉原は世界にも知られた電気街だったが、フィギュアやコスプレ、アダルトゲーム、成人コミックに浸食されつつある街は異空間のように映った――、という旨を綴ったところ、さっそくそれがブログで書かれた。曰く、このひとはアキバについていけないようだ、と。


 もうひとつは、先月21日、山口県で祖父を殺害し逃走した16歳の少年が万引きで捕まり、身柄を確保された街が秋葉原だったことだ。事件の続報によると、少年の家は躾が厳しく、携帯電話の使用は許されず、ゲームの類も禁止されていたらしい。肉親を死に至らしめた少年が目指した街には、おそらく少年の心を惹きつける何かがあったのだろう。それを知りたいと思っていた。

としながら

 チェック地のシャツは前のボタンをすべて開けている。カーキ色のチノパンと、もう少し櫛を入れたほうがいいと思われるぼさぼさの髪型に眼鏡。そして、片手に紙袋をさげ、デイパックを両肩でかついでいた。一見したところ、30代の半ばと思われるが、印象的な風貌の彼とは同じ通りで何度もすれ違っていた。


 私はにわかに興味を持ち、こっそり彼のあとをつけてみることにした。アキバについていけない私が彼について行けば、何か面白いものを発見できるかもしれないと思ったからだ。

と、アキバの客層の中でもかなり特徴的な方を追っているのは、「理解できなかった」という結論の為にわざわざ偏った人材を選んだとしか思えない。
山口に住んでいる少年が抱いていた秋葉原の幻想を30代半ばの男が利用している実際の秋葉原と重なる筈がないではないか。


最近私が楽しく感じるのは車の運転である。
「運転のどこが楽しいの?」とよく聞かれるので、その度に時間を費やして言葉を重ね、助手席に座らせて運転の楽しさを説明するのだが、結局「どこが良いのか分からねぇ」と言われることが多い。
各各の経験の差や身体的な差異によって、同じような体験をしても同じ感想を持つことができないのは当然だ。
そして相手の体験談から同じ感想を持つことができないというのも当然だろう。
同じことをすれば同じ感想がもてるなんてのは妄想に過ぎない。
筆者はそんなことも分からないのだろうか?


個人的に、こういった偏った内容のコラムが載ることに対して強い抵抗感がある。
本当に理解したいのなら、1日と言わず1ヶ月通い詰めればよいではないか。
彼らが見ている本やDVDを片っ端から買い込み、なぜ彼らがそういうものを求めるのかから理解すべきだろう。
商品の価値が分からない限り、「こんなものを買う理由が分からない」のは当然なのだし。
外見に囚われて本質を見ずに安易な批判をするのはもったいない。