障害者に対する寛容さは何処まで持てるか?

非効率、不合理を憎む私たちが作る『累犯障害者』と言う記事を読む。


文意としては「私(たち)が非効率・不合理を憎む事が、障害者の迫害に繋がっている」という事だと理解した。
その立場に立って幾つか気になったことを記す。

効率的・合理的でないものを憎んでいる訳ではない

 私(たち)は、効率的・合理的でないものを憎む。それは仕事に限らず、日常全般に及ぶ。たとえば電車で移動するとき、自動券売機の前まで来て、上を見上げて目的地までいくらかなと探す人がいる。後ろに並んでいる私は、「サキニ、タシカメロ!」と苛立つ。改札で急に前の人間がバタンと扉を締められたときも、心の中で舌打ちをせずにはいられない。電車から降りる際に、扉の前で動かない人間がいると「アケロヨ!」とばかりに肩で押し出すこともある。効率的に物事を進めることを阻む人間に腹が立つわけだ。

この点に関しては、異論がある。
幾つかの事象が混ざっているので全てに対して当てはまる訳ではないが、私が上記のようなことにイライラするのは、決して非効率的だからという理由だけではない。
自分の行動が他人にとってどれだけ迷惑なのか考えられない、その自己中心的なものの考え方に対してなのだ。


何故なら、効率的とか合理的と言うものは、立ち位置によって決まるからである。
以下別項として記す。

非効果的なものに腹が立つのは仕方がない

例えば携帯電話のコールセンターが良い例だろう。
企業側が効率化を求め、オペレーターに接続するまで多くの設問を延延とさせられ、自動応答で済ませられる部分については全て機械にやらせる。
それ以外の点についてはオペレーターに答えさせる。
電話をかけているほうとしては時間がかかって仕方がないし、意図した内容とずれている案内をされたとしても、反論を受け付けては貰えず、もう一度掛けなおす羽目になったりするので、利便性は悪い。
個人的に電話と言う手段に於いてユーザーに一番利便性が高いスタイルは、104の案内のように、かけたら直ぐにオペレーターとつないでくれるようなシステムだ。
全自動化する事について技術的な問題は特に無いだろうが、利用者にとっては利便性が高い。


企業の立場で合理的なシステムを考えれば、電話応答は全自動化が望ましい。
しかし利用者にとって見れば、電話応答は全て人がやってくれる事が望ましい。
どちらの立場に立つかによって、語るべき「効率」の内容が異なるのだから仕方が無い。


つまり「効果的・合理的」とは相対的なものであり、「効率が悪くてイライラする」と言うのは「自分にとって効率が悪くてイライラする」と言う、身勝手な感情に過ぎないのだ。
程度にもよるが、全ての「自分に都合が悪いので腹が立つ」事を我慢するのは、とても難しいだろう。

知的障害者精神障害者

 触法精神障害者の問題は、難しい。殺人のような重罪を犯した者に対しては、知的障害の有無にかかわらず、罪はその重さによって等しく裁かれるべきだと、個人的には思う。ただ、知的障害者を巡る現状にも、もっと社会の目が配られてほしい。

知的障害者精神障害者は全く別のものである。
筆者は自らが知的障害者精神障害者双方に対する偏見を助長している事に気付かないのだろうか?

精神障害者への対応は難しい

私が怖いのは、物事を理解しようとしない人である。
具体的に言えば、「言葉が通じない人」「人の話を聞かない人」「他人の価値観が理解できない人」「物事を鵜呑みにする人」「状況に流される人」等である。


ここで言う「言葉が通じない」という事は、別に相手が外国語を使うために日本語によって意思疎通ができないということだけではなく、日本語が通じるもの同士で同一の単語を使っているにも拘らず、全く違う意味で用いているような場合も差す。
例えば「神様って居ると思う?」と言うような質問をした/された場合、「神様」の定義が違う人と話をしたところで話がかみ合うはずが無い、という事。
全く同じ認識で言葉を使っている相手を探す事は不可能であり、それぞれの定義の幅・量にある程度のバッファはあって然るべきだが、それを外れてしまうと「意思疎通ができているはずなのにできていない」と言う状況になってしまい、使っている言語が同じなだけに気付かない事が多いが、気付いた場合にはショックが大きい。


触法精神障害者とは、私が恐れる要素が全て入っている上で法を犯した人のことである。
怖がるな、と言うほうが無理だ。
積極的に友達になろうと思うことは無いし、自ら進んで近くに寄って行きたいと思うことも無い。
綺麗事を述べるなら「犯罪者だろうが精神障害者だろうが差別をするな」であるが、実際に自分の部屋の隣に住んでいたとしたら、どうなのだろうか?


社会生活はお互いに法を守るという前提によって成り立っているというのに、かつて法を破った事があり、かつ今でも法を破る可能性が高いのであれば、隣人に恐怖を感じないでいることが可能なのだろうか?
人は、その人の積んできた経験の積み重ねが評価される。
「○○会社社長」だとか「○○大学卒」のような肩書きはその人の経験を分かりやすく表示しているからこそ評価され、「約束を守る」「国民年金を納めていない」と言うような過去の行動とそれに伴う経験が評価されるのだ。
それであるならば、「法律を破った」と言う経験がその人の価値を決める要素になっても仕方が無いだろう。

現状では累犯障害者が生まれるのは必然である

これまで書いてきたように、触法精神障害者に対して世間の目が冷たいのは仕方が無いと思っている。
そう言う周囲の環境が再度犯罪を起こす土壌になってしまうことも理解できる。
筆者も「精神障害者を取り巻く環境を考えてみよう」とは言うが、「精神障害者には優しくしよう」「精神障害者への偏見を無くそう」等とは一言も書いていない。
単なる綺麗事に終わる事が分かっているのだろう。
人が皆聖人君主では無いのだから、仕方の無い事だ。


触法精神障害者の社会復帰のみを重視して、受け入れる側に属する人人の心情を考えていない現状には無理がある。
土壌(=社会)が悪いか種(=触法精神障害者)が悪いかは分からないが、土壌を変える事が一朝一夕に無理なのであれば、種をまく場所を変えれば良い。
自然にそのような環境が無いなら、人工的に作る事も考えるべきだろう。
育て方を変えるという柔軟な発想が無ければ何時まで経っても失敗し続けるだけだけだ。




以上、感じた事を羅列した。
同じ本を読んだ際にどのような感想を持つのか楽しみだ。
機会があれば読んでみたい。