煙草の煙と環境問題

タバコの煙と社会的責任 水パイプから考える「2次喫煙」」について。


筆者は煙草の煙を例に環境問題を考えてみるといっているが、筆者の意図した方向とは違うものの、非常に似通っている問題だといえよう。

もし「少なくとも環境にはやさしい」「大気を汚染しない水パイプ」といったことが実証されるなら、一定の意味はあると思います。と言いますか、科学者アタマで考えるなら、同じ分量のタバコを燃やすとして、そこから出る煙をそのまま排出するか、水を通して一定量を吸収させるかで、環境大気に撒き散らす煤煙の量は明らかに減少する筈ですから、結論は分かっているような気がします。

タバコの煙と社会的責任 水パイプから考える「2次喫煙」

この発言は現在の環境問題に対する姿勢そのものである。つまり、二酸化炭素の排出量と言うものを環境破壊の基準に据えて、「二酸化炭素の排出量さえ低ければ環境にやさしい」と言っている現在の風潮そのものだ、と言うことだ。
例えば水力発電二酸化炭素の排出量が低い発電システムであるが、周囲の環境破壊と言う点では、非常に影響が大きいと言える。水力発電所を作るために川を堰き止め人口湖を作った場合、そこに生えていた植物が年間に消費する二酸化炭素の総量、ダムの維持費、ダムを作ったことによる迂回路の諸費用や維持費、迂回路を通ることによって消費される余分な燃料費とそれに伴って発生する二酸化炭素の総量等等、同等の発電量を火力発電所で実現した場合に起こりうる環境破壊よりも水力発電の方が環境にやさしいと言えるとは思えない。
もちろん水力発電所も無計画に立てられているわけではない。適した所に環境に最小限の影響しか発生しないよう建設されているのだろう。ただ「二酸化炭素を発生させないから、水力発電所は環境にやさしい」と勘違いした人が、いたるところに水力発電所を建てたら甚大な環境破壊を起こしてしまう恐れがある、と指摘しているに過ぎない。


筆者の話では煙草の害は大気汚染ということになっているが、煙草の灰が入った水を流しに捨てるのは水質汚染であるし、煙草の匂いを不快に感じる人には、吸っている人が近くに寄るだけで大気汚染だろう(直接的な健康被害が無くとも、悪臭は公害認定される)。また水パイプの製造コスト(費用面だけではなく環境面を含む)も当然加味されて考えられるべきである。
例えば煙草を吸う連中が全て水パイプにした場合、引き起こされる水質汚染はいかほどのものになるだろうか。日本の浄水施設は微生物の働きをうまく活用しているのだが、膨大な水パイプの廃液が、既存の浄水設備を無効化してしまう恐れはないのだろうか。
また水パイプの機材を作るのに必要なコストに処分するコスト、そして水パイプ用のフレーバーを作るのに必要なコストなど、様様なコストを考えた上で「水パイプの方がコストが安い」と言うのだろうか。
「煙を出さないから水パイプは環境にやさしい」とは水パイプユーザーの言い訳にもならない。特に「学者頭」で考えていただけるなら、波及される様様な問題点も同時に考えるべきであろう。それともデメリットを考えないのが学者頭と言うものなのだろうか。


単に「環境破壊」と言われても、何を以ってそう言っているのかは全くわからない。その為一定の指標が必要になるのも仕方がない。現在に於いてその指標が「二酸化炭素の排出量」になっているだけの事であって、実際二酸化炭素が増えることが環境破壊なのかどうかも分かってはいない。ただ目標として据えられたからなんとなくそれが正しいと思っているだけのことだろう。
本当に環境問題を考えたならば、人が豊かな生活をしようとする事こそが環境破壊の諸原因である事に気づける筈である。たった数キロ離れた場所に「楽だから」と車で移動するその気持ちが、環境破壊の原因なのである。
数キロ程度なら歩く、若しくは自転車で移動する方が余計なエネルギーを使用しなくてエコであろう。夏暑くともクーラーを付けずに換気だけで過ごすのがエコであろう。冬寒くとも暖房を付けずに厚着をして過ごすのがエコであろう。
しかし多くの人はそこまでしてエコを貫く気はないのである。だから金を払ってエコであるという証明書、所謂「クリーン電力証明書」を手に入れる。しかしこれは、200年後の歴史の授業で「免罪符」と同じ意味で登場するレベルのものである。免罪符もクリーン電力証明書も「自分の罪を許してもらうために購入するもの」であり、実質的な効果は無いに等しい。まあ死後の世界の事は私は分からないので、免罪符が効果が無いのかどうかは死んだ後にしか証明できないが。


物事の一面だけを見て何だかんだと言うのは非常に簡単である。
重要なのは、物事を多面的に捉えてその長所短所を分析した上で、現在必要な事なのかどうかを考えると言う事である。
煙草の問題が身近な環境問題であると言う筆者の意見に賛同するのは、上記の理由に過ぎない。


始点と終点が同じでも過程が全く違うというのは面白いものだ。