友人らの意識

高校生の頃の友人らと久しぶりに会って旅行に行ってきた。群馬県北部への日帰りのスキー旅行だったのだが、その際に色色考えさせられる事が多かった。


私の友人に創価学会会員が居る。親の代から創価で一家全員創価、と言う友人も居る。高校生の頃はそんなことを意識した事は無かったが、この年になると創価学会と言うものに対するイメージが出来上がってしまい、友人への接し方にも有る程度の気遣いをするようになってしまった。
反対に新潮社に勤めている友人も居る。で、この友人同士も(高校生の頃は)友人同士で共につるんで遊んだりもしていたのだが、最近は同窓会を兼ねた年に一度の忘年会の席でも、席を同じくする事はなくなってしまった。
また、「日本の癌である在日を排除しろ」を声高に叫ぶ友人も出てきたし、逆に「戦争を反省し在日朝鮮人にもっと優遇政策を採るべきだ」と唱える友人も出てきた。「アメリカ嫌い」も居れば「共産サイコー!」って人も居るし、高校卒業後に過ごした10年と言う歳月は、友人らを(そして私を)大きく変えてしまったのだなと痛感した。
いや、もしかしたら高校と言う場所や10代と言う年齢が、こういったごった煮の価値観を許容できる特別なモノだったのかもしれない。


友人が「特別永住外国人、特に在日韓国朝鮮人には参政権を与えるべきだ」と言った。何故なら彼らは自らの意思に反して日本に連れられてきた人達であり、日本は彼らに対して温情を与えるべきだから。そして彼らは確りと納税しているのだから、税金の使い道に対して意見が言えるようになるのが筋だから。その2点を根拠に、在日韓国朝鮮人の方に選挙権を与えるべきだと主張したのだ。
私はそれに反論した。そもそも在日韓国朝鮮人の方は強制連行されたわけではないという事、納税の義務と選挙権は別物だという事、それに選挙権が欲しいなら現在在日韓国朝鮮人の方には簡単な手続きで帰化できるという事、そう言った事を事例を含めて細かに説明して反論したのだが、そういった私の意見に対する友人の答えは下記のようなものだった。
「君は自分に都合の良い事例ばかりを示して自分の違憲を正当化する。無知な私は君の言っている事に反論できない。けれど、私は君の言っている事が間違っているという事は分かっている。だから私は君の意見に賛同しない。」
それならば最初から私にそう言う話を振ってこなければ良いのだが…どうやら私は友人らに「戦争大好きの右翼系」と思われているらしく、友人は私のそう言う思想を正すべきだという使命感に駆られているのかもしれない。


私は別に戦争大好きではない。保守と言う意味では右翼と呼ばれるべきだろうが、街中を凱旋している天皇万歳・軍国主義賛成と言う意味での右翼ではない。
私が戦争関連の書物を読むのは「戦争とは何か」という事を知りたいが為だ。戦争が何かも分からないのに戦争反対等と言えるだろうか?私は創価学会の主催する戦争展示も見に行くが、そう言う展示は戦争の悲惨さを訴えたいだけであって、別に戦争賛成の意図を持って開いている訳ではないだろう。しかし私が「戦争展示を見に行った」と言うと、「ああやっぱりこの人は戦争が好きなんだな」と言うような目で見られる。心外でならないし、主催者側にも良い迷惑だろう。
特定の事象について反対の立場を取ることは良いと思うが、その為に必要最低限の知識は持っておくべきだろう。戦争と言うものが何かも分からないでおいて、戦争について反対することは愚の骨頂だ。それはまるで海原雄山ハンバーガーを食べずに否定するような滑稽さに似ている。歴史学者並みの知識を求めているわけでも戦争オタク並の知識を求めているわけでもなく、戦争反対論者の方はどう経緯で戦争になったのか、という事くらいは知っておくべきだと思う。
戦争も歴史であり、歴史とは人の営みの記録である。戦争は突如発生した災害とは違うという事を認識してほしい。


と思ってはいるのだが、先の友人の言葉にも代表されるように、人の思い込みと言うものは明確な根拠を突きつけても変更させることは難しい。それもまた人の考えと言うものが積み重ねの結果なのだから仕方ない。
できれば今後の積み重ねに於いて、多少の影響を与える事ができれば幸いだが。