死は誰にでも唐突に訪れるもの

http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071121/141191/」について。

 不慮の死というものはある。でも少しでも無念さに身悶えせずに済むようできることもある。それは自分のためでもあり、見送る側の人のためでもある。“死”だから“悲しい”ものだと終わらせるのではなく、悲しくない死を作ることだってできると思う。


 納得できる人生は、納得する死と地続きだ。死がその人の人生設計に明確に位置づけられていて初めて、見送る側もその死を受容できるのではないか。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071121/141191/?P=3

まあ死んだ人間が悔いを感じるのかどうかと言う話はさておき、死の瞬間を自分で選ぶ事はできない。唯一自殺と言う手段によって成しえる事ができるだろうが、死は何時だって唐突だ。だからこそ人は日日を一所懸命に生きているのではないか。少なくとも私はそうだ。
もしかしたら数時間後、通勤時に交通事故に跳ねられるかもしれない。数分後、大地震によって建物が倒壊し下敷きになってしまうかもしれない。覚えの無い恨みを買った人物に刺されるかもしれなければ、突然の病気が発祥するかもしれない。また畳の上で眠るように息を引き取れたとしても、それがその人にとって計画的な死であったとは言えないだろう。


今まで看取ってきた方方の中で、老衰によって眠るように息を引き取ったのは母方の祖母だけである。先日に床についた後、翌日の朝になっても目が覚めなかった。余りにも安らかな顔だったので、同居していた叔父夫婦は「珍しく婆さんが寝坊してる」と、息が無かった事を昼過ぎまで気がつかなかったと言う。
これは稀なケースで、それ以外の方は突然の病気であったり、病院で闘病中であったり、不慮の事故であったりと、「まだ若いのに」と惜しまれつつ亡くなった方ばかりだった。


私の父も私が小学校高学年の頃に急な病で倒れ、一時は明日をも知れぬ命となった。
父は風呂場で倒れたのだが、その日偶然私が一緒に風呂に入って居た事が幸いして早急な対応ができた為に、運良く一命を取り留める事が出来た。あの日私が父と一緒に風呂に入っていなかったとしたら、父の命がどうなっていたのかわからない。そう言う意味で、私はとても運が良かったと言える。
この病気は遺伝的な要素が強いらしく、私も同じような運命を辿るだろうと医者に指摘された。真偽の程は分からない。


話がずれたが、つまり、死は常に誰に対しても唐突に訪れるものであり、計画的な死と言うものは自殺以外に存在し得ないという事。
しかしだからと言って明日を考えずに刹那的なその日暮らしをしろと言うのではない。自分が死んでも世の中は動き続けるのだから、死んだ後でも自分の大切な人達がつつがなく暮らしていけるような社会になることを願って生きていく事が重要なのではないか。
人は過去の経験から自分の考えや行動を決定する。父母の姿勢から教わる人も居れば、歴史上の人物に憧れる人、物語の登場人物に感化される人も居るだろう。同様に、貴方の行動から何かを感じてくれる方は必ず居るのだ。
自分が死んでも自分の考えが世の中に残り、それが社会に影響を及ぼすことがあれば、自分の人生が無駄ではなかったと言えるのではないかと私は思っている。なので私は何時死んでも後悔しないよう、周囲の方に後ろ指を刺されるような行為をする事は恥だと思って慎み、綺麗事だと思っても善意を行動に移すことを好む。


子供の世代には金や土地だけではなく、考え方や生き方も残したいものだ。