飲酒運転の是非

友人とドライブの最中、飲酒運転の結果人を跳ねてしまった人についてのニュースが流れた。
友人は「飲酒運転は意図的じゃないとできない筈なので、もっと厳罰化すべきだ」と主張した。
私はその主張に反対した。
以下、その内容を要約したもの。


飲酒運転は何故起きるのか。
「酒を飲みに車で行った」為に起きた際には確かに意図的と言えるだろうが、自宅で酒を飲んでいる際に呼び出された等、飲酒後に正常な判断ができなくなった為に起きた場合には意図的とは言えないだろう。
もしこれまで意図的と判断するのであれば、そもそも飲酒と言う行為自体が人の正常な判断を誤らせる行為として非難されなくてはならなくなる。
飲酒の是非についてはここでは本題とずれるので、何れの機会に取っておく。


ちなみに、飲酒運転による死亡事故者数よりも、スピード違反や緩慢運転(眠いのに運転するなど)による死亡事故者数の方が多い*1
スピード違反こそ人が正常な判断を下せる際に行える最も危険な行為であるはずなのだが、何故か飲酒運転の撲滅は叫ばれるのに、スピード違反についてのトーンは低い。何故なら、実際のところ誰も制限速度なんて守ってないからである。
つまり飲酒運転撲滅とは単なるマイノリティー叩きであり、警察の交通関係予算や利権を増やす為の方便に過ぎない、と私は思っている。


彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」という詩が有る。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。

マイノリティーは切り方によってどうとでも作る事ができ、そうやって作ったマイノリティーを片っ端から叩いて言葉を封じていけば、何時かは自分がマイノリティーになる。
「明確な理由があって厳罰化に賛成する」と言うのなら分かるが、「自分に関係が無いから厳罰化に反対しない」事は恐ろしい事だと自覚すべきである。



ちなみに、私は飲酒運転はしないし、いかなる理由があっても飲酒運転をする方は尊敬できない。
車に乗るまでは良く酒を飲んでいたが、飲酒運転だけはしたくないと思い、車に乗るようになってからきっぱりと酒を断った。
その為めっきり酒に弱くなってしまい、昔のペースで酒を進めてくる友人らの前では失態を演じる事も少なくないのだが…まあ車を趣味に持った代償と考えている。
何もかもを望むのは贅沢と言うものだ。