どのような社会像を想像しているのか

昨日のエントリーに対する回答を頂きました。「前提が変われば考え方も変わるのです」について。
以下引用部分が前後しますので、一度氏のエントリーを一読されてからお読みください。


全般的な印象としては、共産主義国家を目指しているのかな、と言う感じです。共産主義を否定する訳ではありませんが、現状取りうる国家形態としては非現実的な印象を受けます。親の経済格差が子供の教育格差に繋がり、人の機会が平等化されていない。だからこそ家族を解体することで子供を国家が育て、機械の平等化を計って競争すべき、という事なのでしょう。


私が一番疑問に思うのは、全ての差別の要因が家族にあるという氏の主張です。
親の経済的な格差のみが差別の要因ではないという点については返事では触れていませんでしたのでどのように思われているのか分かりませんが、人は生まれながらに差があります。遺伝子レベルで先天的な障害を持っている方や、身体的能力がずば抜けている方、知能の良い方など色色です。
私の通っていた小学校では運動に秀でた人は運動会で個人演舞の時間が確保されていました。これは差別ではないですか?それともこれは公正なものであって、個人演舞ができなかった私達の努力が足り無かったとでも言うのでしょうか。
勉強のできる人は授業で先生に指され、恙無い回答をすることでクラスの賞賛を浴びるでしょう。勉強の出来不出来は努力の結果でもありますが、個人的な資質も大きく関係してきます。家庭教師をした際、「1-5=3/7」と答えた方が居ますが、この人が何故この回答に行き着いたのか、今もって私には分かりませんが、この人が努力が足りなかっただけでしょうか?
また人は容姿によって差別を行います。先日のエントリーでも触れましたが、人は美しいものに心惹かれる反面、醜いものを蔑視する傾向があります。教育の場でも容姿による差別は行われており、事実私は学芸会などの主役に立候補をしても「顔が怖いからダメー」等と先生に言われ、都合5年間一度も学芸会の主役をやらせてはもらえませんでした。が、まあ仕方ねぇかと思う面もありました。残念ながら自分の顔は主役向きじゃなくて、怪獣や怪人役がお似合いですからね。
私の経験から幾つか例を出しましたが、これらが決して例外的なことだとは思いません。日常的に能力のあるものが優遇され、能力の無いものは冷遇されます。その能力の差が個人の努力の結果であれば構いませんが、努力ではどうしようもない事が多分に含まれているように私は思っています。よって、家族が解体されたところで機会の平等が訪れるとは到底思えません。
機会の平等が訪れないのは報道で幾らでも例が出ています。例えば幾ら法を制定し監視体制を敷いたとしても、未だ談合一つ無くなりません。


また家族と子供を切り離した場合、自分が育てる事の無い子供を女性が苦しい思いをしてまで産むものでしょうか。それとも取りあえげる事を前提に子供を産ませるとでも言うのでしょうか。私も男なので子供に対する印象は女性とかなり違うでしょうが、それでも子供は母親にとって特別な存在なんだろうなと感じる事は多いです。
それは私が母に恵まれたからかもしれませんが。


以下枝葉末節になりますが、個別に意見を。

なので、個別の実現性云々を突っ込まれても無意味ということをご承知ください。あくまでも思考の方向性を問題にしています。

現状の解決策としてではなく単に思考実験としての話であれば、聞き流せなかった私が悪いのかもしれません。しかし教育バウチャー制度を批判する上で家族解体を唱えたのですから、教育バウチャー制度と同等くらいの実現性があるものだと受け止めてしまったのも仕方が無いとご容赦ください。
以下、実現可能な政策であると仮定した上で記述しますので、的外れになるかもしれません。


どのように家族から解体された子供を育てるのかイメージがつかないから話がかみ合わないのかもしれません。

子供は社会が扶養するという考え方です。少なくとも個別に扶養するよりは集約できるだけ効率が上がりトータルとしては安く済むでしょう。

とあるので、有る程度の集団で育てることを想定されているのだろうと推測します。具体的には児童養護施設のようなものでしょうか。であれば、子供の多様性は失われやすいと判断せざるを得ません。

もっと今回の件に近い例を出すなら、ある施設で育った子供達には多様性がなくなるのか? と考えれば、誤解による懸念だと理解していただけるでしょう

例えば私は子供の頃に習い事を週6日行ってきました(剣道、水泳、ラグビー、書道)。他の方でも塾以外の習い事をされた方は多いでしょう。周囲にはピアノ等特定の楽器が上手い方、柔道などが上手い方など多種多様です。まあ大体は自分でやりたいと言う事もありつつ、親から強制されたものもあるでしょう。前者で有名なのは谷良子さん、後者で有名なのは福原愛さんとかですか。
世の中には多くの知識があります。集団化した場合、それらの知識を誰がどのように習得するかを決めるのは子供達なのでしょうか。前提として、子供には判断能力が備わっていない為に選挙権などの諸権利が認めらず、保護者が必要とされている訳です。私は子供の自由にさせる事が子供の未来に繋がるとは思えません。親が有る程度の道筋を立てるからこそ、各子供に多様性が生まれるのではないでしょうか。
まあ現状行われているそう言う行為が子供の自由や将来を奪っている可能性は否定できませんが、親が居なくなったところで結局誰かが子供を指導する上で、将来を奪っている事もまた否定できないでしょう。

教育内容にも依りますが、それが適切であるならば、子供達の価値観は周辺の外的環境に一様に依存しているわけではありません。経験と言い換えても同じです。客観的に見て同じ経験、同じ刺激であったとしても、それをどう受け取るかはそれぞれの子供ごとに異なるからです。それは同じ家庭で同じように育った年の近い兄弟。例えば双子などでも同じ価値観に必ずなるとは限らないことからも判ります。

それは人によって所属する集団が違うからです。兄弟には扱いに差が生まれるので比較対照とするのはナンセンスだと判断し、ここでは双子のみを取り上げます。
家庭が一緒だからと言って、付き合う友達連中が違えば考え方にも差が出てくるのは当然です。人は自らが所属する集団から様様な事を学ぶからです。片方が「嘘つきは仲間はずれにするぞ」と言うルールをもっている集団と付き合い、もう片方が「嘘も方便、とりあえず人を泣かせた奴が悪い」と言うルールをもっている集団と付き合ってきた場合、二人の考え方に大きな差が生まれるのは明白です。
もちろん家庭が同じな為、他の部分では共通した認識が生まれるかもしれませんし、反対にそれぞれの経験から親の言う事が素直に聞けたり聞けなかったりし、二人の考えに大きな差が生まれれてくるとも言えます。
これを読んでいる方も住んでいる地域による差、通ってきた学校による差、働いている職場による差などを感じる事はありませんか?つまり、所属する集団によって考え方が違うという事はそう言うことです。
適切な教育がどういうものかわかりませんが、集団に対して者を教えるという事は、少なからずその集団を特定の色に染める事に他ならず、多様性に富んだ人材を育成する事は出来ないように思います。

誰が何を幸せと感じるかは、誰かが、ましてや僕や貴方が規定できるものではありません。それに、単に幸せの選択肢が少し減少したというだけの話でしかありません。それですら、逆に家族制度を解体することによって広がる選択肢もあるかもしれない訳です。今は家族があるということが普通だと意識されているので、それが無くなることは不幸だと考えているだけなのではないですか? もし、最初から家族などと言う概念が消失していれば、特に不幸と感じることはないんじゃないですか? 恐らくそうなった時、人間は別のものに幸せを求めるだけだと思います。

それは何になるのでしょうか。具体的な幸せの形が提示されない以上、氏の提案に同意する事は難しいです。それこそ全く逆に「悪くなるかもしれない」訳ですし。全てを肯定的に捕らえればどのようなとっぴな解決方法でも良くなってしまいます。

それと、結婚まで否定するかは微妙だと考えています。仮に否定したとしても、結婚という形式が無くなるだけであり、お互いが納得の上で生活を共にすることは自由でしょう。

それは結婚とは言いません。同性でも構わないのでしょうし。まあそういう共同体が新しい経済基盤として機能し出すのかもしれませんが。

また、老後に関しても、現在でも費用は誰かが負担している訳です。で、その出所は結局国民の財布な訳です。なので、家族制度を解体したから、極端に費用が変化するわけではないでしょう。また、老後に関しては自己責任の度合いを上げるという手法も考えられます。実際子供が存在できないとなれば、そういう判断をする人が増えることでしょう。前提条件が変わっているのですから、人間の思考パターンも変化すると考えるべきです。無理に現状の思考パターンを当てはめようとするから、無理を感じているのではないでしょうか。

金額面に於いて、老人の面倒全てを国が見ているわけではありません。また万が一病気や怪我をした場合の介護などは家族が行っています。老人の孤独死も語られる昨今、一人暮らしは現実的ではありません。とは言え介護施設を完備するには納税者の金額的な負担が大きくなります。
現在でも老人ホームに入居できる裕福な家庭は一部です。

それ以外については、そうかもしれませんが、変わりに別の産業が賑わうだけなので、特に問題にはならないでしょう。既存の社会構造を守ることが正義であるという観念がこの発想を生んでいるんだと思います。実際は、経済規模自体が変わらなければ、使い道が変わるだけですから、大きく考えれば、構造が変わったとしても問題にはなりません。

変わりににぎわう産業とは何でしょうか。そしてそれは、縮小した業界から溢れた労働力を活用できるだけのキャパを持っていそうでしょうか。

個人の財産は個人(あるいは配偶者程度)にのみ紐尽くというのが僕の考え方です。よって個人財産自体は否定しませんが、相続は基本的には否定しています。それが、経済活動に対するモチベーションに対してどの程度の影響を与えるかなど考察部分は残りますが、僕は最終的にはそれほど現在と変わらないだろうと考えています。それは、家族制度が個人を家族に縛り付けている要因と考えているからです。そうではなく、個人が社会に直結しているという感覚をもし持てるなら、家族の為に頑張ろうという考えから、社会の為に頑張ろうという発想に変化するのみで、結果としては変わらなくなります。

人は概念の為に努力する事は難しいです。国家のためにと言うお題目でモチベーションが維持できる人は少ないのではないでしょうか。
映画「父親たちの星条旗」に「祖国のために戦い、戦友のために死んだ」と言う言葉があるそうです。ソースは忘れてしまいましたが、米兵の多くは戦場では恋人や家族、国家と言う概念の為に戦うのではなく、ただ隣で戦っている友人と生きて帰る為に戦うのだ、というアンケート結果が出た、と言うのを見た覚えがあります。あながち的外れでも無く感じるのは、学校や特定の集団の代表として団体競技をしている場合、切羽詰ってくれば結局考えられるのは自分とその周囲のことだけだった、と言う経験があるからです。
親の為、子供の為、つまり家族の為にと、毎日やりたくも無い仕事に精を出している方が居ます。冗談交じりに「家族があるから自殺も出来ねぇよな」と仕事をしている方が身の回りに居るのは、私だけではないと思います。
「誰かが支えてくれる」であろうおぼろげな国家と言う概念と、「自分が支えなくてはいけない」であろう自分の家族とでは、明らかに重みが違います。「家族がなくなれば国家の為に働くモチベーションが維持できる」と言うのは有り得ません。
それに私達は、知らずのうちに親から相続しているものが多いはずです。家で使っている車や家財道具等、子供は自立と同時にそれらを自分で買い揃えなくてはいけないのでしょうか。社会に出てから猶予期間としてそれらが完備された公営住宅に住むという事も手段としては考えうるかもしれませんが、それらを用意するのは容易なことではないはずです。


僕としては当面の場当たり的対策を考えようとしている訳ではないのです。

社会構造から抜本的に改革してしまえば現状発生している問題については解決しやすいでしょう。現首相さえ「年金問題は戦争でも起きてゼロからスタートすれば解決する」と発言してますし、抜本的な改革を望むのは時流なのかもしれません。
しかしそれは、外山恒一氏の「全てをぶち壊す事だ!」と同じような意見で、現実的な解決策とはいえません。
理想的国家を目指した革命が本当の理想国家になったためしを私は知りません。
なので氏の提唱するような社会基盤を大きく変化させるような改革について諸手を挙げて賛成することは出来かねます。具体的な根拠やビジョンが無く「そうなるかもしれない」と言う期待による部分が多く見られるので、同じ見方をし辛いのも要因でしょうか。
なので今回も私は、氏の意見に賛同する事ができませんでした。