私にとっての「自立」とは

自立とは何か?」について。
正直、上野千鶴子女史の公演内容を又聞きした格好になるので正確な意図をつかめていないとは思うが、どうかご容赦されたい。
気になったのは2点。


1.
引用箇所が前後するが、下記2点を比較する。

 上野氏は続けた。なんのための自立か。それは目的か。手段か。人が自由に自分のやりたいことをして生きられる、そのための手段として自立があるのではないか。なにも自立のための能力すべてを自らが持っていなくてもいい。誰か持っている人から調達すればいい。

 社会学者の上野千鶴子氏の講演に久しぶりに出向いた。“自立とは何か”がテーマだ。そこで、“自立”とは“手段”か“目的”かが問われた。自立には経済面と生活面と精神面がある。自由にできるお金があり、自分ひとりで日常の家事をこなせ、誰かに頼らず生きている、ということだ。

持っている誰かから自立の為の能力を調達すると言う事は他人に頼って生きているという事になり、それは上野女史が定義する自立の定義と矛盾してはいないか?という疑問を抱いた。
何故なら、人から何かを調達する為には一定の信頼関係が必要であり、信頼関係とは「お互いに頼り頼られる間柄であると信じられる関係」だと思うので、自分に足りない部分を人から調達するという事はその人を頼っている事だと考えるからだ。
それとも、信頼関係の有無に関わらず他人を上手く利用しろと言うのか、それとも補えない部分は代金を払った上でサービスとして提供してもらえと言うのだろうか。
いや、そうであれば

 講演にむけての参加者意見カードに「自分だけ自立していても、他の友達が自立していないと、結局孤立する」と無記名で書いて提出した。大勢の参加者がそれぞれの意見カードを提出した中から、私のコメントを上野氏は取り上げた。


 「自分だけは自立していると明言なさるが、そんなあなたは周りから浮いているはずだ」と上野氏はマイクを握り、そのコメントの主に容赦なく言い放った。

のような発言はされないだろう。
であれば、信頼の無い状態でどのようにすれば己の欠損部分を他人から調達できるというのかが分からなかった。


2.
上野女史の「自立のための能力すべてを自らが持っていなくてもいい」と言う発言や、自立の定義が「自由にできるお金があり、自分ひとりで日常の家事をこなせ、誰かに頼らず生きている、ということ」である事、そして自立の目的が「人が自由に自分のやりたい事をして生きられる」という事に違和感を覚える。
自分の考える自立・自由の定義とずれているからこそ感じる違和感なのだろう。
では私はどのようにそれらの言葉を定義してるのか。


先ず私が考える自立とは、「自らの社会的役割を定義し、それを遂行できる事」である。
自らの社会的役割とは己で定義するものではあるが、それは自由勝手に決めればよいというわけではなく、周囲に求められている役割を察することが前提となる。何故なら周囲に求められている役割との差があればそれが己の評価に直結し、己に対する信頼を左右する事になるからだ。
周囲からの期待に応えていけば信頼され、応えられなければ信頼されなくなる。信頼が有るからこそ周囲からの助力を仰げ、自らに足りない能力を補う事ができるようになる。つまり信頼の度合いが高ければ高いほど、信頼してくれる人が多くなれば多くなるほど、己に足りない部分を補えるように、そして己の能力をより一層高める事ができるようになり、結果としてより困難な物事をこなせるだけの力となる。
そしてできることが増えれば増えるほど周囲から期待される社会的役割は大きくなり、自らに課す社会的役割もより大きなものになっていく。そう言う信頼の積み重ねが結果的に人を政治家にしていくのだと思うが…この件については話がずれるので後日。
ちなみに、自分で自分の社会的役割が見出せず他人にその定義を委ねているようでは自立しているとはいえない。定義してくれる人が親であれば、その人は子供と呼ばれる存在だ。定義してくれる人が雇用主であれば、その人は奴隷と呼ばれる存在だ。
つまり、自立とは己と周囲との兼ね合いが取れるようになるという事。決して自分ひとりで生きていけるようになる事ではない。


次に私が考える自由とは「自らの社会的役割を遂行する為の手段を好きに選べる事」である。
具体的には「職業選択の自由」や「進学の自由」「結婚相手を選ぶ自由」など、己の社会的役割を果たす為の手段についてのことである。「働かない自由」等の己の社会的役割を放棄するような行為のことではない。
極端では有るが、「人を殺す自由」等が罪と定義されて制限されるのは、それを認めることで社会生活が成り立たなくなってしまうからである。同じように、「働かない自由」やなどと言う社会が成立し得なくなるものは認めてはいけないものだと考えている。社会が成立していなければり、自由なことができないからだ。
十分な理由付けが無ければ行使し無い方が良いものも有る。例えば「離婚する自由」などの相手が直接関係するような行為を行使する際には、「単に自分がやりたいから」では動機としては不十分だろう。
つまり、自由とは手段を選べるという事。決して「何でも己のやりたいようにする」という事では無い。


以上、筆者の「自立とは何か?」という問いかけに対する私なりの答えとなっていれば幸いだ。



上野女史の考え求める社会像と言うものを知らないためにこの様な意思の齟齬があるのかもしれない。
そういったことを理解する上で最適な本をご存知の方、できれば教えて頂ければと思う。