言葉の定義について

昔、友人に
「同じ日本語を喋っているとは思えない程に、全く意思の通じない人がいる」
と言う話を受けたことがある。
サイコさんでも電波系でも無く、ただ単に、些細な共通認識のずれが積み重なった末に全く意思疎通ができないと言うこと。
例えば
A「金八先生って面白いよね」
B「うん、ヒロインも可愛かったよね」
A「そうだね」
と言う会話があった場合、AとBとの間で想像されるヒロインとが同一でない可能性は高い。
AとBとの間で金八先生の第何期を指しているのかに差がある可能性があり、その上でヒロインとは誰を指しているのかにも差がある可能性があるからである。


今日、先生と
「武道と武術の違いは何?」
と言う議論をした。
「お互いにその言葉をどういう意味で使っていて、それが結果としてどのようなものまで含むことになり、その定義に矛盾が無いだろうか」と言う議論であって、別にどちらが正しいかを競うと言うものではなかったのだが、剣道をやっている私と少林寺拳法をやっている先生とでは、武道と武術と言う言葉の定義に大きな差があることが分かった。
そのそも何故そういう話になったかと言えば、先生の「子供の情操教育に武道は大切だ」と言う発言からだった。
私はそれに大いに賛成して話が進んだのだが、その途中で「武道」に内包される具体的なモノが何なのか、という事に触れた際に意見の食い違いに気づいたのだ。
私にとって武道とは、剣道・柔道・弓道であり、先生にとっては空手、拳法なども含むものだった。


私の定義において、武道とは道の追求に主眼が置かれるものであり、試合は己の成長を知る為の手段に過ぎず、勝敗は二の次である。
そもそも剣道において、試合で買った際にガッツポーズなど取ろうものなら「相手に対して非礼な態度をとった」として反則負けになる*1程、礼儀が重要視される。この点において、昔参加した某大会の委員長が「剣道とは武道であり競技ではない」とお話されたのは至極真っ当であると考えており、私は競技としてのJUDOは武道ではないと思っている。
反対に武術とは技術の研鑽に主眼が置かれるものであり、試合は勝敗が重要である。剣術とは剣を用いることで相手を如何に効率良く無力化させるかという技術の集大成であり、それを磨く事によって用を成すものである。もちろん自己探究心のようなものも生まれるであろうが、それは剣術を修練した際に生まれる副産物に過ぎない。
先生の定義において、道とは自己探求のことであり、武道とは武を鍛えることによって道を極める事全般である、と言う。なので自己探求の無い武術などありえないので、すべての武術は武道である、とする。
私「では上泉信綱宮本武蔵は剣術家ではなく剣道家なのか?」
先生「剣術勝負に明け暮れた前半生は剣術家だが、それを元に自己探求をした後半生は剣道家である」
とのこと。
私と先生との言葉の定義についてどちらが正しいと感じるか、と言う点についてはここでは問わない。これを見ている方にとっての定義もそれぞれ異なるであろうからだ。ここで言いたいことは、「武道は情操教育に良い」と言うたった数文字程度の一文を互いが誤解の無いように理解し合おうとすると、とてつもなく膨大な時間がかかると言うこと。


つまり、その人が使っている言葉はその人の経験を通してしか理解できない概念であり、同じ言葉を使っているからと言って同じ意味であるとは限らないということ。
それを理解していただければ、安易な気持ちで耳障りの良い言葉に頷いてしまうのはとても危険なことなのだ、という事も自明であろう。
先日の日記にて

机上の空論を並べて満足できる頭でっかちには、上野先生の「自立」論は難しすぎる。

と言うコメントを頂いたが、前述のように他人の意見を理解するのは難しいのだから仕方が無い。むしろ私は数回の公演や書籍を読む程度で理解したと思っているほうが危険であるとさえ思っている。
だからこそ長い時間をかけて互いを(有る程度)理解しあった関係*2は貴重なのではないか。



私の日記が引用や例えが多く、かつ多くの言葉を使ってしまいダラダラと長くなってしまうのも、皆さんに出来るだけ私の言いたいことが齟齬無く伝わるようにとの思いからである。
それを汲み取っていただければ幸いだ。

*1:剣道試合審判規則 第16条

*2:親や友、恋人など

無責任な他人叩きに関して

日本は「勝手主義」の時代になった」について。

 民意というなら訊いてもらいたいと思う。なにひとつ落ち度や欠点のない精廉潔白な人に大臣や首相をやってもらえばいいのか。それとも多少の失敗やキズ、弱点があってもきちんと結果を出してくれるような有能な人、職責に身命を賭けて努力してくれる人がいいのか。普通の大人なら、政治家にだって精廉潔白な人なんて滅多にいないことを知っている。誰しも一個の人生を築いて、それなりの力を発揮するところまで行く過程の中でなんの波風もない、ひとつの過ちや落ち度も犯さないような人間なんて、まずひとりもいないことを、普通の大人なら知っている。出てくれば自分たちで持ち上げて、押し出しておきながら、すぐにマイナス面、うまくいっていない面ばかり強調して、叩いて潰していくという最近の政界人事の繰り返しに、大きな失望感を味わっている。

私の先日の日記に通じるところがあると思ったので引用。
政治家は視聴率稼ぎのネタではない。